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ふみきコラム 311以後②

フクシマでは更にひろがりそうな強制退避区域の他にも作付禁止区域が指定されるのだという。それはどういうことなのだろう?豊かな土があり、雨が降り、春が来て草花は日に日に緑を深め花を咲かせているのに種を播いてはいけないという。それって何なんだ。

種を播き、その実りを食すというのは約一万年前の新石器革命以来、人間が言葉をもっているのと同じ位深く、人間を人間たらしめてきた原初の行為だ。それを禁止するのだという。いやそんなことよりも、その恵みを食す事ができない土地は、そもそも人間が住むに値するのだろうか。誰もそのような土地で子を産み育てようとはしない。作付けを禁止するとはその土地は捨てよというに等しい。

そしてフクシマ第一の現状と放射能の蓄積を考えれば、「それは今年だけ」なんて楽観論はたぶん誰も言えない。行政も、また情けないことに当の農業者も「補償を」などと言っている。しかしこれは補償などというレベルの話ではない。その土地と、その土地に蓄積されてきた歴史がまるごと見捨てられるということである。

またたとえその禁止区域に入らなくてもその周辺の野菜や米や牛乳など誰もあえて買おうとはしない。それは仕方ないし当然のことだ。それを見越して作付けしない人も沢山でるだろう(米など他産地のものと混ぜればわからないが。また作付しなければ補償もされないはずだからアリバイ的に作付けする人も多いだろう。情けないけどそれもまた当然だ)稔りはあっても誰も買わない食さないというのは、社会的な作付禁止といえるだろう。

放射能汚染に関しては消費者は難しい選択を迫られることになる、と私は思う。規制値以下でも食べないというのは消費者として決して間違ってはいない。何度も言うように規制値というのは「このくらいはあきらめよう」ということであって、それ以下なら安全などというものではないのだから。

しかし、もし大多数の人がそう考えて行動すれば、福島だけでなく茨城や千葉や群馬や栃木や宮城など広大な産地の農作物はみなアウトであって、それは社会的作付禁止として、「そこはすでに人の住むに値しない土地である」と宣告することになる。(むろん実際は人は住み続けるだろうが)その行為の意味するところはそういうことである。その広大な土地を消費者として見捨てることになる。

そしてその莫大な社会的損失は当の消費者も今後背負っていかねばならない。この列島に居住している以上それから逃れられない。個人としてはささやかな安全と安心を手に入れるかもしれないが、実は当の本人もその未来に於いて計り知れない損失を負うことになる。放射能汚染にあっては単純に消費者の立場などないのである。そこが農薬による汚染と全く違うところだ。「規制値以下ならがまんして食べよう」という常識的な判断をしたとして、それでもフクシマ第一の現状を考えれば福島県の半分くらいはおそらく見捨てることになる。その社会的損失はやはり背負わなければならない。

「規制値なんて何倍も越えたって俺は食うぜ、50ミリシーベルト位平気だぜ」とヤセ我慢してはじめて見捨てる土地を半径30kmと飯館村や南相馬市くらいに限定することができる。しかしそれでも社会的損失は甚大なものとなる。気の滅入る話だがそれが現実のようであり、消費者はその覚悟をしなければならない。「農薬のかかったものは食べない」というのとは話が違うのである。(農薬の場合は「農薬を使うのをやめる」という選択を農業者はすることができた。しかし放射能はそれができない。)3.11以後、放射能時代とはそういうことである。S
by kurashilabo | 2011-04-16 22:18 | 鈴木ふみきのコラム