<   2015年 01月 ( 7 )   > この月の画像一覧

ふみきコラム 40周年特別コラム⑮

 ムラ共同体の解体を(おそらくそのプロセスの最後を)内山節にならって1965年と考えればそこからすでに約50年、半世紀である。今ではムラ共同体の解体どころではなくムラ自体の存続もあやうくなり、30年後には多くのムラや自治体が“死に体”になるとみられている。これも歴史の自然過程なのであろう。

 ムラには今の日本(経済)が必要としている富(資源)はもう何も無い。かってはエネルギーの中心であった薪炭や馬はもはや遠い昔話しの世界である。日本の近代前期の土台であった養蚕も終わっている。食糧とて似たようなものだ。戦後すぐは100%近く、1960年でも79%あった食料自給率(カロリーベース)は現在40%弱になっている。この40%とて食糧安保や国土保全の観点、農民対策(選挙対策)として底上げされたものだ。これは食糧も純経済的には必ずしもムラに依存しなくてもよいということを意味している。また農業生産額のGDPに占める割合は1%程度であり、これは農業が無くなっても日本経済は困らない、農業はもはや経済の問題ではないということである。人という資源もまた無い。かって経済の高度成長を底支えした大量の余剰労働力(金の卵)はすでになく、地方を維持していくために必要な数を残すだけだ。今後はそれさえ都市へ流出していくだろうという。人材も少なくなった。戦後の大学進学率の向上は地方からみれば結局のところ有為な人材の流出システムでしかなかった。彼らの多くは再びムラには戻ることはなかったから。そしてまた長い農業社会が蓄積してきた多くの知識や技能も(近代前期には有効であったが)科学技術や情報が高度化した現在では何の役にも立たない。かって(1965年まで)工業や都市を支えた力強いムラや地方は今はもう無い。ムラには日本の現代が必要とするものは何もない。日本経済というマクロな眼でみればそこは巨大な空洞であり、お金がかかるばかりでそこを維持していくのは重荷である。誰もはっきりとは言わないが、ムラや地方は“お荷物”になったということである。政治家は地方重視を言い、“地方創生”などという飾り言葉をふりまいたりしている。空洞化させてきた当の本人が言うのだから笑止だが、国民国家の指導者としては当然のことである。しかしその地方重視は地方の衰退を止めるものではなく、それを前提としたうえでの地方再編(コンパクト化)とセーフティネットの補強ということにとどまるだろう。
 だが経済成長という近代の「信仰」から離れて「人の暮らし」という眼でみると“何でもある”のがムラであり田舎だ。田舎には暮らしの資源はいくらでもある。ヤマがあればエネルギー(薪炭)も建材も竹も山菜も“ジビエ”もある。田や畑があればむろん基本食糧には困らない。川があれば水遊びもできるし魚もいるだろう(今はいないけど)。それらをうまく活用する技能も絶えてはいない。食はもちろんのこと住も衣もかなりのレベルでまかなえる。増え続ける空き家も貴重な遊休資源である。また日本の経済成長のおかげで幸いにも(?)道路は十分すぎるほど整備され、上水道はもちろん下水道も整備されていて至れり尽くせり。だが田舎資源はあくまで暮らしの資源であり、それをお金にしようとするととたんに苦しくなる。平成の経済感覚ではペイしない。(だからあらゆるものが遊休資源化している)しかし「時給1000円のアタマだと無理だが500円で良しとすれば(茨木)」仕事は沢山ある。500円といわず300円でいいと腹をくくれば仕事はもっともっと作れる。やれること、遊び資源はいくらでもある。昭和30年代レベル、「1965年の革命」以前の暮らしならそれで十分可能だ。ア-ミッシュのように近代以前の暮らしに戻らなくても近代前期の豊かさは十分に満喫できる。田舎資源とはそういうものである。

 「SHOEN2015」はこのような時代認識のもとに構想されている。そのイメージについてはすでに当コラム(2013年12月14日~2014年3月22日号)でプレゼンしたので繰り返さない。要は経済成長の結果として遊休化してしまったヤマ、田や畑、空き家、人や技能など沢山の田舎資源を再「開拓」していろいろな楽しいアソビ(事業)を始めようということである。開拓民になるのだ。そうした人と事業のネットワークとして「SHOEN○○」というアソビの広場(生活自給園)を立ち上げる。この開拓は外の開拓と同時に内を開拓することでもある。「SHOEN」はマチ、サト、ヤマという異種文化圏を往還する生き方の提案であり、人類史の身体的復習として新しいココロとカラダを作るプログラムであり、そういうものとして最も深い知性と癒やしをもたらすだろう。「SHOEN」は都市民に寄付と参加を求める。このような場所を最も必要としているのはむしろ都市民であり、彼らは「SHOEN」の未来の住民であるはずだから。年月を経て人も増え、土地になじみ、人と自然の共同体として「SHOEN」は私たちの未来のふる里となっていくだろう。

 たまごの会が(暮らしの実験室を含め)その40年という活動の過程で出会うことになった先述した問題群、農と農業、家畜論、贈与経済と公、集団形成における神社という機能、人間を超越するモノとの関係、集団のサイズ、近代の組織に替わる運営スタイル、共同農場の可能性と難しさ、等々は「SHOEN」活動でも様々な場面で出会うことになるはずだ。そのような意味でたまごの会は今なお教訓的であり、貴重な“先行事例”として記憶にとどめられてよいと思う。 S


[PR]
by kurashilabo | 2015-01-31 09:57 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

荒れ果てた耕作放棄地を開拓しよう!

c0177665_11170067.jpg

やつだ開拓団(仮)団員募集
2015年2月中旬から開拓スタート!
詳細は近日公開予定!

やさとの十三塚という地域の山あいに、30年以上耕作放棄されている荒れ地がある。
30年前は小さな田んぼがいくつも並ぶ「谷津田」だったそうだ。

「山水をひいた田んぼだから、お米がとても美味しかった・・・」
と、この田んぼを貸してくれる80歳を越えるおばあさんが話してくれた。

ここでもう一度お米を育ててみたい。
筑波山に連なる山を背景にもう一つの楽園を作ろう。

わさびを植えるのもいいかもしれない。
果樹を育てることもできるだろう。
炭焼き小屋も作れるかもしれない。
山に入って山菜をとろう。

鎌を持ち、草を刈り、
鍬を持ち、田を耕す。

コンクリートに覆われた都市で野性に蓋をして生きているうちに忘れてしまった記憶。
人間ももともと自然の一部であったことを思いだし、あるがままの自分を開放できる場所になるかもしれない・・・

そんなことを夢見つつ、みんなでこの場所を開拓したい。





[PR]
by kurashilabo | 2015-01-27 11:18 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム⑭

 初期たまごの会の記録映画と言われている『不安な質問』(松川八州雄監督)に農場の居間(3間4軒)でメンバー全員が合唱するシーンがある。明峯哲夫さんがピアノを弾き、惇子さんが“ささら”を鳴らし、魚住さんがギターをもち、鈴木光男さんがエアーで「♪あしたからはあなたなしで生きていくのね♪…」とうなるあのシーンである。ボクは農場の初期メンバーではないが、撮影の終わり頃には農場にいて、このシーンにも隅の方で同席していた。たまごの会のイロハもよくわからない頃だったがこの撮影のあと、女性スタッフの1人が「ヤラセよねぇ」と吐き捨てるようにクサしたのをよく覚えている。確かにあの時以外、皆で歌を歌う光景など見たことなかったし、あとから知ったことだがすでにこの頃には農場内人間関係は最悪だったから。だからヤラセといえばヤラセで、松川氏の映画にこのようなシーンが必要だったので、それを承知で皆が演技したのである。ならばウソかといえばウソでもないところが難しいところで、農場建設はあのような心身の共振と高揚がなければ不可能であったはずなのだ。ウソといえばウソ、ホントといえばホントのような『不安な質問』で松川氏は何を“記録”しようとしたのであろうか。るる述べてきたこの小論にひきつけて言えばそれはやはり生き物と共同体ということになるのではないかと思う。ポスト1965という時代の中で“裸の個”として生きざるを得ない本質的孤独を抱えた都市民が農や生き物、共同体という生き方に触れた時の驚きと喜び、そのようなものではないか。そしてそれが一場の夢として消えていく予感の中で『不安な質問』としたのであろうか。
c0177665_10050558.jpg

 さて、たまごの会が農場建設に着手したのは1974年であるが、もしその10年前であれば「農の課題」など存在せず、都市民による農場建設もありえなかったはずだ。それはポスト1965年という時代にしてはじめて現実的たりえたのである。たまごの会がことばとして掲げたのは「食の安全性」「本物の食べ物」ということであり、言ってみればそれだけだったがそこに生き物や自然とのコミュニケーションの願望、共同体という生き方への欲求があったことは疑いえない。「農場建設」はその最も直接的でわかり易い形だった。たまごの会に関わった人たちが「農場」という単語を発する時、そこにある特有の感情、メタメッセージはそのようなものである。たまごの会はそのレベルでポスト1965年という時代の深いニーズに触れていたのであり、それこそがおもしろさの根源であり、共感を呼んだ理由であるだろう。たまごの会がもしその方向で素直に自己展開を遂げていれば“田舎でもあり都市でもあるような新しいコミュニティ”“人と自然の王国”の試みとしておもしろいものになったかもしれない。しかし残念なことにたまごの会はその可能性を十分開花させる前に勢いを失ってしまった。その理由はいろいろあるにせよ、70年代80年代はまだ冷戦構造の時代だったし、自らを語りうるだけのことばも無かった。早すぎたのである。

 ここまでムラ共同体とたまごの会を並べて考えてきたが、本来比較できるようなものではないことは承知している。ムラ共同体は日本社会のベースにあった実体であり、歴史の自然過程として生まれ、また変容し解体していったのであってそこに個人の意志とか運動とかは関係がない。他方たまごの会は70年代の市民運動一つ、それもごく小規模なグループであったにすぎない。ことばの正確な使い方はわからないが、そのような意味ではたまごの会は共同体というよりコミューンと言った方が正しいのかもしれない。コミューンは一般に人々が意志して立ち上げるものだから。しかしたまごの会をムラ共同体という日本史の経験に照らしてみるとたまごの会とは何であったのか、何たろうとしていたのかがクリアに見えてくるから不思議である。むろんたまごの会はムラのことなど意識したことは全くなかった。それが似てくるとあらば、生き物や自然とともにあろうとする暮らしはおのずと似たような形になってしまうのか、それとも無意識に身体に記憶されたムラ共同体を呼び起こしていたのか、いずれにせよおもしろいことではある。 S


[PR]
by kurashilabo | 2015-01-24 09:54 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム⑬

 伝統共同体(ムラ)は解体したと言われて久しい。それはもう50年も昔の話題である。しかしその解体によって私たちは何を失ったのか、その何が問題なのかが問われることは無かった。なぜとなればその解体を誰も問題とは考えていなかったからである。当のムラの人々にとってそれは“豊かさ”“便利さ”“明るさ”と引き換えのものであったから当然である。共同体とは言ってみれば“しばり”であり“重荷”でもあるから、それ無しで暮らしていければそれに越したことはない。ムラは風通しも良くなり暮らしやすくなったのである。むろん今もムラはあるし祭りもある。しかしそれは地縁、血縁でつながった人たちの近所付き合いに近いもので、すでに彼らは個々の暮らしと人生を生きていて基本的には都市民と変わらない。若い人は特にそうだろう。

 他方、都市の人たち、戦後の科学と進歩と経済発展を担った人たちにとっては共同体の解体は当然のことであった。ムラは進歩の反対語であり、科学の反対語であり、民主の反対語であり、経済発展の反対語であったから。この点に関しては右も左も同じで、むしろ左(マルクス主義陣営)の方がより積極的だったかもしれない。マルクス主義歴史観は進歩史観であり、封建制の名残りであるムラ共同体の解体なくして市民社会も社会主義もない訳だから。

 要するに、ムラ共同体を律していた価値や人生観、世界観は戦後精神と真逆だったのであり、それ故戦後精神の中に生きた人にはそれは“見えなかった”ということなのであろう。共同体の解体とは何か、それによって私たちは何を失ったのかという問いは立てようがなかったのである。戦後の歴史は「戦前など無かったように」進んできたが、ここでも同じ態度が繰り返されている。戦後はムラ共同体など単に全否定すべきもの、なかったものとして私たちは生きてきた。しかし一般的な歴史理解によれば中世の惣村以来、日本社会の基盤であり続けた共同体が解体したとあらばそれは大きな歴史の区切りであり、その意味を問うことは実に重大な問題であるはずなのだ。

 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」で内山節氏が言う「1965年頃の人間と自然との関係の変容、ないし革命」はこのムラ共同体の解体と密接に関連しているのは容易に推察がつく。ムラは「農」という営みや日々の暮らしを通して、はたまた精神世界においてもその土地の生き物や自然、山や川と深く結びついていた。共同体は人間だけでなく、それら(彼ら)を含めたものとして構成されていた。そのような意味で、共同体は人と自然とのコミュニケーション装置、あるいは人と自然の共生装置だということもできよう。“風土”といわれるものが人間の営みとその土地の自然との合作だということからいえば共同体とは“生きられた風土”だと言ってもあながち間違いではない気がする。その共同体が歴史からフェイドアウトしたということは要するに私たちが「暮らし」という身体性のレベルでの自然とのコミュニケーション回路を失った、あるいは社会の土台から人間と自然の共生装置が失われたということになる。

 この問題はムラに住む人よりむしろ都会に住む人にとって切実となる。ムラの人はそうは言っても農業も自然も身近である分自覚症状を持ちにくい。かって日本の田舎はどこへ行ってもムラであり共同体であった。日本近代を牽引したのは工業であり都市であったとはいえ、その発展を支えたのはそのムラであった。戦前から戦後の一時期まで日本社会の土台はムラであり、そこから食糧、エネルギー、様々な物資、有能な人材、労働力、知識や技能、ありとあらゆる富(資源)を吸収し続けることでその発展は可能になっていた。そして忘れてはならないのは都市の暮らしもそのような形でムラとつながり自然とつながっていたということである。日常の中に田舎の手触り、自然の息吹が普通に感じられた。都市の暮らしもまた“根っこ”があったのである。

 その共同体が戦後の燃料革命によって、人材の流出によって、戦後教育によって、テレビの普及によって、モータリゼーションの浸透によって、農業の“近代化”によって、つまりは戦後の商品経済が田舎の末端まで達したことによって解体してしまった。そして都市の暮らしから生き物や自然の手触りや息吹が失われ、人々は“裸の個”として生きざるを得なくなった。都市が自然から浮遊するようになったのである。1965年の革命にはそのようなことも含まれている。 S


[PR]
by kurashilabo | 2015-01-17 09:47 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

2015年もよろしくお願いいたします

c0177665_15422846.jpg
今年は新たに女性スタッフが1名増えました。ますます面白くなるやさと農場から、皆さんに「農のある暮らしの豊かさ」をお届けできたらと思います。

お野菜セットのお試しや定期注文や、個人、団体の「農場暮らしの体験」など、いつでも受け付けております。お気軽にご相談くださいませ。



[PR]
by kurashilabo | 2015-01-12 15:45 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム⑫

 第4に集団としての意思決定の方法が似ていた。たまごの会は地区世話人が十数軒、多いところで50軒程度の会員を束ね、そのような地区が20弱前後連合したものである。各地区世話人に農場スタッフが加わる形で世話人会を構成し、この世話人会が会として唯一の意志決定の場であり、かつ執行機関であった。たまごの会には規約もなく、代表も置かず会員総会のようなものもなく、世話人会での申し合わせがすべてであった。世話人もいわゆる地区代表ではなく、地区を立ち上げ会員を束ねるいわば“領主”であり、地区の人々の意向を常に勘案してはいるけれども最終決定は世話人個人の意志と責任で為された(実際には地区により事情は様々)。このようであったからたまごの会はいわゆる民主的な「組織」ではなく意を決した個人の連合、グループというべきものである。初期たまごの会の行動力や勢い、面白さはこの「個人」を原理とする世話人会という運営方法を抜きには語れない。

 世話人会による運営にはいくつか特筆すべきことがあった。まず多数決という方法はとりえなかった。一般に多数決は少数の意見を排除し多数に従わせるための強制力であって、多数の人々を数として動かしていく組織の論理であり「政治」である。しかしたまごの会はそもそも組織ではなく個人の連合であり運動体であったから、その内のたとえ1人でさえ排除する正当性を他の誰ももちえなかった。またたまごの会では「何が正しいかではなく何をやりたいかを語れ」としばしば言われた。これもまた「正しさ」は必ず「正しくないもの」を作り出し排除する強制力として機能するからである。運動は「~すべき」という正しさの観念(イデオロギー)ではなく、それぞれ固有の「何をやりたいか」「何がおもしろいか」という全身体的欲求に駆動されなければならない。ここにはそういう洞察があるだろう。

 しかしこのような前提で運営するにはメンバーそれぞれに“与党的態度”が求められることになる。組織にはしばしば“野党反対派”が生まれる。相手を批判することに自らの存在理由を見出す一群の人々である。しかし野党あるいは反対派というのはそこに権力構造があり、多数決や「正しさ」で「政治」が動いていく時、ある場面で一定の有効性をもつだけであり、その前提のないところにかようなスタイルが持ち込まれると運営は成り立たなくなる。反対を言いつのる人が1人でもいれば、排除の論理(多数決)をもたない以上、運営はデッドロックに乗り上げてしまうのである。同じことだが実行意志を伴った「何をやりたいか」をもたない人々が集まってもこの運営は成り立たなくなる。どこかの事務局から「方針」なるものが提起されて、その是非を議論していればいい訳ではないから。

 このようにみてくると世話人会方式というのは多数決民主主義的な組織運営の批判として構想されていることがわかる。実際、この点に関しては初期たまごの会は相当に意識的であったと思う。そしてそこには「正しさ」の観念や「組織」がもらした数えきれない悲惨の記憶が反映していることもまた容易に推察がつくだろう。

 しかしこのようなスタイルで運営するのは実に根気のいることであった。全員の納得というのはテーマが重大であればそれだけ困難であり、同じテーマで繰り返し会議をもたなければならかった。(全員賛成とまではいかなくとも積極的に反対の人はいないというところまでもっていくことでさえ)またこのスタイルは運動を立ち上げる時には有効に機能するが、それだけでは運動体を長期的に維持していくことはできない。組織運営という普通のやり方も必要になってくる。実際のところ、世話人会方式が有効に機能したのは初期だけではなかろうか。

 さてこのような意志決定のスタイルは近代的な組織の「会議」というよりむしろかってのムラの「寄合い」に近いのではなかろうか。寄合いはお互いに顔見知った共同体の運営の方法で、そこには「多数決」も「正しさ」もなく、“やる必要のあることのすり合わせ”があるだけである。もっと積極的な言い方をすれば一揆を組む時のやり方でもあるだろう。一揆は意を決した「個人」の横並びの連合であり、正しさではなく実現目標の共有と行動の調整があるだけだった。一揆は組織がやるものではないし、組織にはできないのである。共同体の意志決定というのは結局のところこのような形に落ち着くのであろうか。面白いところである。 S


[PR]
by kurashilabo | 2015-01-10 09:33 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム⑪

 このように農場は神社に似た機能を果たしていたが、その中心テーマである御神体と神話、マツリはさすがにもちえなかった。これについては二つのことをコメントしておきたい。

 ひとつは農業は神観念を内在させなければ社会的にも自分自身にとっても危険なものになりかねないということである。お米や肉は道端に落ちている訳ではない。人は岩魚やリスのように森の中で静かに暮らしている訳でもない。木を切り倒して土をはぎ、水を引いて田を作り、種を播いてそれを育て、一気に刈り取る。イノシシを捕まえ飼い慣らして豚と為し、餌を食わしてこれを育て、大きくなったところを殺して肉をとる。いずれも荒々しい人為であり、農業はそのような仕方で自然あるいは野生といわれるものと触れ合い、たわむれ、そこから富を引き出してくる。しかしこの合理精神と人間中心の営みは人の精神にある種の負債感を生み出し心に堆積させていく。農業が原理的にはらんでいるこの問題は古来人を悩ましてきた。これは相手が動物の場合とりわけ問題になる。原理的には同じでも作物や野菜の場合は“命を奪い取る”という負債感は少なく、むしろ“もらう、恵み”という感覚をもつことができる。古来、人はそこはあまり悩まなかった。しかし相手が動物となるとそうはいかない。自分が大事に育てた動物を使役したり殺して肉を食うということは強い負債感なしにはできない。そもそも人は平常心でルーティンワークのように動物を殺すことができないようにできてるし(そこがフリーでは仲間殺しが多発し集団が維持できない。このタブーすなわちあの“いやな感じ”が解除されるのは狩猟や祝祭空間というアドレナリンが沢山分泌される時だけ)、加えて「飼う」という行為は意味的には「子育て」と同じなので「自分が飼っている動物を殺す」というのは「子殺し」のタブーにも触れることになるからである。「畜産」では“もらう、恵み”という本質はこの負債感のうしろに隠れてしまう。「自然の中に人間を超越した存在を認め、それを敬い、人間のために命を落としたモノ(霊)をマツル」ことでこの負債感を帳消しにし同時に恵みに感謝する、これがこの列島に住む人たちが選択してきた方法である。「神を畏れる」ということである。同時に人為(文化)の対極に「山」を“あるがまま”の自然としてあがめていた。人々はこのような形で狩猟採集に替わる「農業という文化」を築いてきたのである。それはまた人間中心主義が暴走する歯止めにもなっていただろう。農業はその内に神観念をそなえていなければ自然を食い荒らすだけでなく、自分をも頽落させてしまうかもしれない危険をはらんだ営みなのだ。

 いまひとつはそのような神観念を迷妄として歴史のクズカゴに遺棄してきたのは他ならぬ私たちだということである。私たちを作ってきた“戦後精神”は徹底して人間中心主義であり、科学と進歩と経済発展を至上価値としてきた。たまごの会も豊かになった社会の産物であり、高等教育を受けた人々の開明精神が生んだものであったから当然それに加担していた。それ故、自然の中の神という意識は自らの戦後精神の枠組みを問い直すという思想的作業を伴わざるをえない。昔話しとしてならばともかく、アクチュアルな課題としてはなかなか困難なことなのである。

 時代的な制約という意味で無理もないことではあったがたまごの会はこれについてはテーマ化することはできなかった。話題にさえでていなかった。しかし近代農業の暴走は神観念の遺棄と共同体の解体という「地慣らし」があってはじめて可能になったことであるから本当はこの問題を避けて通ることはできなかったはずなのだ。「農」を語るのであればいつかは向い合わねばならない課題として手付かずのまま今に残されている。

 神話といいマツリといいどちらにせよ途方もないことではある。それは伝統的共同体に特有のものであり、その解体のあとはもはや民俗学の中にしか存在しない。そもそも私たちが使うことば、すなわち近代精神はその解体の中から生まれてきたものであるからこのようなことばでは原理的にこのテーマには近づけない道理なのだ。それを承知のうえで農場ではここ2年ほど、“鎮魂祭”なるものを密かに(?)催している。アイヌのイヨマンテ(熊祭り)をモデルに殺した豚やトリの魂をあの世に送りその卵や肉が私たちにもたらされたことに感謝するのである。パロディにすぎないとはいえ心の重荷が少し軽くなるから不思議である。神観念は消えてしまったのではなく、ことばや振る舞いが与えられないのでただ眠っているだけなのであろうか。 S


[PR]
by kurashilabo | 2015-01-03 09:29 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)