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ふみきコラム 40周年特別コラム⑥

 都市化された生活に出自をもつ(人たちの語る)有機農業ということばには「農の課題」と「農業の課題」が整理されることなく詰め込まれている。1982年の旧たまごの会の「分裂」は誰の目にもよく見える形でそれを実によく表していたと思う。
分裂にたち至った原因は単一ではないが、ベースに「路線問題」があったことは誰も否定しないだろう。共同自給農場を建設して約5年、一段落したところでたまごの会は自己を振り返り、また世に問う形で「たまご革命」を出版し、自費出版として「たまごの会の本」を作り、記録映画(といっていいかどうか)「不安な質問」を発表する。しかしそれは同時に潜在していた「路線問題」を浮上させることにもなった。たまごの会とは何なのか、どこに進むべきなのか。

 「路線」をはっきりと提示したのは後に「契約派」と言われるようになる人たちである。彼らは「農家と組む」ことこそ会の本筋だと考えた。地元の農家に有機農業に転換してもらい、彼らを都市消費者が買い支えることで農業の現場と食卓を結び、農業を変え都市の暮らし変える。農場生産は小さくしていく方向でモデル的有機農業を営み、同時に農家の生産物の集荷配送センターとしての役割に強くしていく。これは「提携」と呼ばれる有機農業運動論の考え方で、当時注目を集めていた山形県の「高畠町有機農業研究会」の活動や京都の「使い捨て時代を考える会」の活動などに刺激されていたのだと思う。そのような眼でみればたまごの会は農場を作りみんなでワイワイ楽しんでいるだけで、それでは別荘農場にすぎないではないか?!というのが彼らの批判である。たまごの会の原点をたどれば、いいたまごを生産している農家さんから安全・安心のたまごを共同購入するというのがスタートであるからこれは会の本流だし最大公約数だったともいえる。

 それに対して「農場派」と言われることになる人々の言うことはわかりにくかった。共通していたのは「それは私たちが魅力を感じていたたまごの会とは違う」ということだけで、では私たち考えているたまごの会とは何なのか、そこがわからない。「作り、運び、食べる」を旗印にしたあのワイワイガヤガヤとした共同自給農場という実践には確かに何かあるのだが、そこがうまく言えないもどかしさ。様々な語られ方をした。「たまごの会は有機農業運動ではなく消費者自給農場運動だ(明峯)」「農場は都市への根拠地(井野)」「私たちの有機農業は農業用語を使った都市についての語り口(鈴木)」「たまごの会は農「業」ではなく農なのだ(?)」等々。
契約派は「農業の課題」という文脈でたまごの会を解釈しその方向に作り変えようとしていたし、農場派はたまごの会に「農の課題」に触れるものを感じとっていたのである。契約派が「農業問題が見えてきた」「農家を変える(啓蒙)」として農民運動を都市消費者が支える方向に運動としての意義(政治)を見ていたのに対し、農場派はむしろ60年代からの西欧的なヒッピームーブメントやコミューン運動と共振して都市住民自身の生き方暮らし方を変える契機としての農という理解で、そこに「新しい政治」の可能性を見ていたという言い方もできる。

 実際の運動過程としてはかようにクリアーに分かれていた訳ではなく、関心の置きどころに濃淡があるだけで、両方のベクトルが混然一体となって不思議なエネルギーを発揮していたのが初期たまごの会であったと思う。それがやむをえなかったか必然だったかはさておき、敢えてする「分裂」がメンバーとその意識をふたつに切り裂いていったのである。分裂後についていえば契約派は「食と農をつなぐこれからの会」を立ち上げ新しいスタートを切ったが、「普通の農家と組む」ことはそうた易いことではなかったようである。農場派は農場を維持していくことはできたものの、それが何なのか、農場を維持することで何をしたいのかという問いには答えを用意できないまま、宇治田農場時代には普通の実業としての有機農場化、あるいは一種の契約農家化していった。いずれにせよ両者ともに魅力と社会的迫力を失うことになったのである。 S


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by kurashilabo | 2014-11-29 16:17 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

冬季限定 あったかお鍋セット

お鍋が恋しい季節となりました。100%無農薬のお野菜と、大切に育てた鶏か豚のひき肉と、自家製キムチもつけたお鍋セットを期間限定でご注文承ります。冬の寒さにあたって美味しくなった野菜をたっぷり食べて心も身体もあったまりましょう。お歳暮やプレゼントにも御利用いただけます。

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【セット内容】 ※クール便でのお届けになります。
 ・野菜(白菜、水菜、大根、春菊、ネギなど、季節のお野菜10種類程度)
 ・卵10個
 ・自家製キムチ320g
 ・豚挽肉300g(12月6日、13日)鶏挽肉300g(12月20日、27日)


7~8人前程度です。

価格 4,000円(送料込)

※キムチ抜き、豚肉のブロック(1,100円/500g~)、豚挽肉(450円/300g)なども承ります。
※豚ブロックは部位の指定はできません。サイズも500g前後となります。

【配達日】 金曜発送の土曜着となります。
12/6 12/13 12/20 12/27

【注文期限】 
2014年12月24日(水)まで(12/27日着便)
※お鍋に必須のお野菜が無くなり次第ご注文打ち切らせていただきます。ご了承ください。
※初めて注文方は代金の振込確認後の発送となります。

【振込先】
ゆうちょ銀行口座から振込 00390-0-17509 暮らしの実験室やさと農場
他銀行から振込       039(ゼロサンキュウ)店 当座 0017509 同上

★申込フォーム
http://goo.gl/tvpBCC

【問い合わせ】
yasatofarm@gmail.com
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by kurashilabo | 2014-11-26 09:04 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム⑤

 そういう見方で有機農業をみるとまた違ったものにみえてくるだろう。有機農業という言葉はなかなかやっかいな代物である。使う人や話しの文脈で意味内容が変わってくるからだ。もともと農家の人が有機農業を語る場合はたいていは「農業の課題」としての有機農業のことである。農薬や化学肥料を使わない農業、かってはあたりまえだったが今は敢えてする差別化農業。だから「この畑は有機だけどあっちの広いほうは慣行農法」などということが矛盾なく語られる。畑には除草剤は播かないが、まわりの通路には平気ということさえある。先進的農家の場合は「近代農法は安全性や環境負荷の面で大きな問題があり有機農業こそ本来の農業」だとしてポリシーとして有機に転換していくが、それでもやはり農業としての有機農業である。

 都会で生活していた若い人たちが新規就農する場合は(Iターン)それとは違う。彼らにとって有機農業は「農の課題」であり、自然との深いコミュニケーションの願望の表現としての有機農業がまずあり、そのうえで「業(なりわい)」としてどう成り立たせるかという順番になる。だからそこでは「できるだけ機械に頼らず手作業で」「より自給的に、できれば家もセルフビルドで」「草も友だち」「お米も作るし野菜もあれもこれも」ということになる。田んぼの苗代作りを例にとっても、あえて泥田に入り「水中保温折衷」でやり、田植えも手植えで、というようなことが価値となる。つまり有機農業は彼らにとってまず価値の選択、ひとつのライフスタイルとしてあって、そのうえで農業としての有機農業ということになる。就農し年月を経れば農業としての有機農業が日常となり前面に出てくるのは当然だが、この本質は変わらない。そこが例えば戦後開拓などでの帰農と根本的に違うところで、1965年以後の日本の社会に出現した現象(人の動き)であるといえようか。

 それは豊かになった社会の現象、社会的余裕の産物ではあるが、その豊かさを身をもって問い直すという意味では彼らは可能性として最もラディカルな批判者である。彼らが問うているのは経済発展至上の価値観であり、科学、技術のネガティブな側面についてであり、コミュニティ(共同体)の解体であり(個人主義の批判)すべてを商品交換に一元化してしまう資本主義の原理そのものだったりする。途方もないことだがそれは「戦後化」を問い直すことであり、「近代化」を問い直すことでもある。これが彼らが背負わされることになった課題、歴史の中での立ち位置だ。しかしそれはテーマが大きすぎてにわかには言葉にできない。ましてどのような筋道でそこに至れるか誰も皆目わからない。それでも彼らは何かに突き動かされて道のない荒野に踏みだしてしまうのである。思いの外気軽に。

 気を付けなければいけないのはこの時有機農業論の果たしている役割である。有機農業についての言説は「ハウツウ有機」からイデオロギーとしての有機農業運動論まで実に幅広い。それについて雑誌や書物も沢山出回っている。そうしたものが今の仕事や暮らしのあり方に疑問をもった若者たちを田園へと誘い出している役割を否定しない。だが同時にそれらが「農の課題」を「農業の課題」へ回収してしまう役割を果たしていることもまた否定できない。繰り返すが「農の課題」と「農業の課題」は課題としてのレベルが違う。「農の課題」は「農業の課題」をその一部に含みつつももっと深く、射程の長い文明史的課題である。「農業の課題」としての有機農業はすでに農産物の生産流通の一部にしっかり組み込まれていて批判者という役割は基本的に失われている。良くも悪くも市民権を得ているといえようか。

 今では若者たちの田園志向、ライフスタイルの選択としての新規就農さえも、更なる過疎化、限界自治体化する地方の、やむにやまれぬ最後の処方箋として期待され始めている。そこでは「ともかく地方へ来て住んでくれればいい、若い女性に子どもを産んで人口を増やしてもらいたい。何か新規事業を起こしてくれれば尚いい。」そういう動きとして歓迎される。かような甘い誘いにのって地方移住する人も今後増えるだろう。皮肉なものである。ボクたちは地方の過疎化や農業問題に頭を悩まして「農」の方に歩み出した訳ではない。むしろ最も辺境的なテーマに取り組んでいると思っていたのに、気が付けば時代のスポットライトを浴びて「地方創生」などといういかがわしい(?)スローガンに組み込まれようとしているのだから。 S

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by kurashilabo | 2014-11-22 16:12 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

2015年研修生を募集中!!【募集締切ました】

※2015年の研修生の募集は終了しました※

暮らしのじっけん室やさと農場では、以下の期間、有機農業や循環型の暮らし、共同生活などに関心があり、経験や実践を積みたいという人を研修生として受け入れています。農場に住み込みながら、スタッフと一緒に畑作業、鶏や豚の世話などを行います。興味をもたれた方はお気軽にお問い合わせください。

<研修期間>
2015年3月~2016年2月  
※期間は相談に応じます。短縮・延長も可能。

<募集人数>
 1名~2名

<条件>
ⅰ)農場内に住み込むこと
ⅱ)スタッフや滞在者との共同生活ができること
ⅲ)成人(20歳以上)であること
ⅳ)性別、農業経験は問いません
ⅴ)正式受け入れの前に、おためし滞在をしていただきます
☆体力、持久力、普通自動車免許(MT)がある方歓迎☆

<待遇>
食費、滞在費などはいただきません
生活手当を月2万円程度支給いたします
共済保険にはいります
部屋は相部屋になることもあります
1週間に1日、お休みがとれます
※農閑期であれば相談の上、連休も可能です。
 期間終了後、スタッフ登用の可能性があります。

<応募方法>
随時募集していますので、メールかお電話でご連絡ください。
折り返し、応募シートを送らせていただきます。

※定員になり次第締め切ります。

■連絡先 
email kurashilabo@gmail.com
tel/fax 0299-43-6769  担当:姜(かん)
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by kurashilabo | 2014-11-18 09:04 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム④

 このコラムで以前にも触れたことがあるが哲学者の内山節は次のように言っている。(「日本人はなぜキツネに騙されなくなったか」2007年) 「・・・このように考察していくと、1965年という年は、日本人にの精神史にとって大きな転換期だったのではないか…日本の人々が受け継いできた伝統的な精神が衰弱し、同時に日本の自然が大きく変わりながら自然と人間のコミュニケーションが変容していく時代でもあった。その意味で1965年当時、日本には一つの革命がもたらされていた。・・・」

 1965年は自分史でいえば高校3年生である。それ以前の自分の子ども時代は家が貧乏であったから山や川で遊びまわっていた記憶しかない。全くのカントリーボーイだったが当時の地方の子どもたちは多かれ少なかれそうだったと思う。街の生活が「3丁目の夕日」だった頃、田舎はまだまだ「うさぎ追いしかの山、コブナ釣りしかの川」であったのだ。その後ボクは家を出て地方大学で数年ごちゃごちゃと過ごし、東京に住むようになってからもウロウロして故郷に帰ることもなかった(冠婚葬祭は別として)。意識して生まれ育った環境を見直すようになったのは30代になってからである。改めて周囲を見直すと、それはもうかっての故郷ではなくなっていた。山や川で遊ぶ子どもたちはいなくなっていたし、そもそも川にいたはずの魚やカエルがいなくなっていたし、肥溜めは埋められていたし、むろんもう馬はいなくなっていたし。見るもの触るもの、何もかも「散文化」してしまっていた。ツマラナクなっていた。それを当時、自分がオトナになったからだとボクは考えた。郷愁の中で子ども時代はいつでもそのように感じるものなんだと。だがやはりあの頃、「自然と人間のコミュニケーションのあり方の変容」が社会の深くで進行していたのだ。その革命をリアルタイムで生きていたということだ。内山の考察が妥当なものかはわからないが、自分史的にはそのような仕方で納得するのである。

 小さな祠に鎮座していたり、油揚をくわえていたり、人をだましたり、人に化けたりして人の生活や心の中に住んでいたキツネがその頃を境に消えて、ただの動物種、イヌ科のキツネになった。1965年前後の頃どうして自然と人間はよそよそしい関係となり、あるいは自然はただ客体となってしまったのか。経済発展を至上の価値とした戦後、科学や技術への無条件の信頼、古いものは迷信とか封建的とかいうコトバで捨て去った進歩主義、電話やテレビの普及、モータリゼーションの発達による地域性の希薄化、都市への人の移動、機械化・化学化・大規模化する農業の生産現場等々。これらの価値を是とすることにおいて右も左もなかった。戦後はそういう時代であった。かような戦後という時代そのものがそれをもたらしたのであり、1945年を戦後のスタートと考えれば1965年は丁度その戦後精神が成人したということになり、その頃人の心だけでなく、農村の草木1本にいたるまでが「戦後化」されたということなのであろう。もっともこれらの近代主義は明治維新のそれでもあるから、この時明治維新の精神が大衆レベルで達成されたという見方もできる。1868年を明治元年とすれば、ほぼ100年で日本人の精神は「開明化」されたのである。そのような意味では100年かかった「自然と人間のコミュニケーションのあり方の変容」が1965年に完成したと言った方が正しいのかもしれない。教科書的な政治社会史からは見えないもっと深いレベル、コトバにもなりにくいところで進んでいた歴史がその時姿を現したのである。

 前置きが長くなったが、ここで言いたいことはボクたちが「農的」というコトバをつかっている課題はこの「自然と人間のコミュニケーションのあり方の変容」という「革命」に対応しているのではないかということである。農的課題とは「戦後化」し近代化を果たした人間が再び自然とのコミュニケーションを回復することは可能か、それはどのような筋道で可能となるかということであり、1965年以降日本の人々の前に出現した文明史的課題である。内山の言う「自然と人のコミュニケーションのあり方の変容」が戦後精神のたまものとすれば農的課題も戦後精神の中に孕まれたと言えるし、明治以来の近代化からとみるならば日本の近代100年が生み落とした課題ともいえる。

 「農か農業か」「農的とはどういうことか」という問いはずっとぼくたちを悩ませてきた。今も農業志向(いや農的志向と言うべきだろう)の若者たちを悩ませ混乱させている。(多くの場合、彼らは自らの混乱に気付かないほど深く混乱している)農業の課題というのは有機農業であれ何であれコトバにし易いしわかり易い。それに比べ農という課題はとらえどころがない。しかしその深さと射程範囲を見定めておかなければ昨今の農的志向も斜陽化著しい農業や過疎化して消滅さえささやかれる田舎の穴埋めに(自ら進んで)使われて歴史のモクズとなるのが関の山ということになるだろう。ボクたちが直面しているのは農業問題でも田舎問題でもなく、もっと文明的な問なのだから。 S


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by kurashilabo | 2014-11-15 16:08 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム③

 今の農場は自分が経験した農場生活の中で一番暮らしやすいのではないかと思う。その理由はいろいろ考えられる。若い人たちが皆おだやかでリベラル、総じて育ちの良さを感じさせることも大きい。彼らは豊かな時代に大事に育てられたのだろう。人柄がいい。ボクの少年、青年時代は貧乏なカントリーボーイであったから彼らが気楽にピアノを弾いたりサックスを吹くのをみているとまぶしくもある。今にして思うと農場第1世代は「トンガッテ」いたし、それぞれのキャラが鮮明だった。彼らの多くが70年前後の政治の季節の中でもまれてきていたことも大きいが昭和に自己形成した人間と平成にそだった人間はやはりどこか違う。

 今の農場には理念性が希薄だということも大きい。初期には「農場かくあるべし」という理念がしっかりあったし運動の先頭を走っているという自負もあったと思う。生産面でもどこよりりっぱな飼い方、育て方をしている、モデルであるべきだという意識だった。「ユートピア闘争」などという言葉も聞いたし「共同性」もしばしば話題となった。それが建設期の農場の「熱源」であったことは間違いないが、反面農場生活を重いものにしていたことも疑いないところだろう。冷静に考えればそれが破たんするのは時間の問題だった。理想社会の建設の試みは必ずその真逆のものを生み出すというのはあまたの歴史が証明していると今では言える。しかし時代はまだ冷戦構造で、例の「大きな物語り」もまだ生きていたのである。

 初期の共同生活が破たんしたのはむろん理念性の問題だけではない。メンバーの多くが夫婦あるいは家族で農場で暮らしていたことも大きい。当時は何組もの(4~5組)家族が顔を突き合わせ、ひとつのテーブルで食事をとっていたし、子どもも多かった。夫婦、家族というのは小さいがそれ自体強固な共同体だ。農場という共同体の中にそれが重複してあるというのは今にして思えば原理的に無理があったといわざるをえない。先回ふれた大正時代の実験的試み、「新しき村」でも「夫婦で入村した者たちは言うまでもなく、村で一緒になった6組の夫婦はみな村を去った。家庭というコミューンは、村というコミューンと両立しない。むしろ敵対する。・・・・」と関川夏央は「白樺たちの大正」の中でまとめている。ここ10年余、農場が曲がりなりにも共同生活しえたのは皆単身者だったことが大きい。子どももいなかった。(ちなみに共同体としての農場という環境は子どもにプラスと考える人が多いが必ずしもそうとは言えない)今後も今のような形で農場を続けるならばそのことに自覚的であるべきだと思う。

 ところで今の農場はそもそも共同体といえるのであろうか。それともアブレ者の吹き溜まりにすぎないのだろうか。農場スタッフは何か明文化された理念を共有している訳でもなく、実現すべき目標を共有してもいない。皆、それぞれなのである。気楽な農場に居心地の良さを感じて吹き溜まっているだけではないのか。しかしモノは言いようで、この場所は「釜」だということもできる。いろいろなものが混ざり合い煮えている釜。その中で皆それぞれに何者かになってゆくのである。そこをもっと格好よくいえば「落ち武者が群雄割拠する“梁山泊”」(木村)と言っても悪くない。「水滸伝」の梁山泊だって宋江らメンバーは何か理念を共有したりはしていない。ただ反逆心だけが共通項だったのだ。農場はやわらかい梁山泊だ、ということにしておこう。

 農場スタッフ間の関係も同志とは言いにくい。國分功一郎氏はその著書「社会の抜け道」の中でこの農場をとりあげ、そこを「帰る道が同じなので一緒に帰ろうみたいな」と形容している。うまいこと言うなぁと思ったものである。同志というより同僚というところだろうか。農場という場を共有し、ここをより居心地よく、かつ面白い「場所」にしていこうという点についてはスタッフは意志一致している、と思っている。しかしこの場を使って何をやりたいかということになると、むしろそれぞれなのである。理念や実現目標を明文的に共有しているとは言い難い。理念性が希薄といったのはそういうことだが、誤解のないよう解説するとこれは理念がない、何も共有していないというのとは違う。理念や大きな方向性についてのアドバルーンが折に触れてあがるし、日常会話でも夢のような話しはいくつもでる。小さいことでいえば「馬がいたらいいねぇ」というようなことまで含めて。しかしそれがすぐ共有される訳ではない。一定期間を据え置くうちにそれらは自然と脱色したり熟成したりして皆が納得できるものはそれなりに共有されていく。「1人の歌がいつのまにかみんなの愛唱歌になっていく」そんなカンジで現スタッフは農場の基本性格と大きな方向性については共有しているはずだ。そのような大小のアドバルーンがあがらなくなったら?それは農場の寿命が尽きたとみるべきだろう。居心地のいい農場、料理もうまい、それも40年というそれなりに重たい経験の遺産だということである。 S
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by kurashilabo | 2014-11-08 16:02 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

祝40周年 やさと農場収穫祭を開催しました

1974年に松林を開墾して誕生した「たまごの会 やさと農場」。7年前に「暮らしの実験室 やさと農場」に変わりましたが、農場がここに存在できるのは、40年間野菜や卵、お肉を食べ続けてくれた会員さんや、今まさに農場を利用し、暮らしに農的要素を取り入れながら生活しようとしてくれている仲間たちがいてこそです。

そんな歴史ある農場の40年目の収穫祭に、多くの方が集まってくれました。
設立当時の世話人さん、農場スタッフなど、ここを作り、守り、育ててきた人たちと、今現在農場を利用し、自分たちの生き方を再構成しようとしている人たち、開放的で自由で、自然あふれる農場を愛してくれている人たちが集い、共に食べ、語り、笑いあう、本当におだやかで優しい時間が過ごせて、なんだかとても嬉しかったです。

前日までの雨が嘘みたいな快晴でした。
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開会の挨拶は農場40年の歴史の中の15年をスタッフとして関わる鈴木さんにお願いしました。
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美味しそうな料理の数々は、現農場スタッフと前日入りしてくれた会員さん。
そして持寄りしてくれた方々の心のこもったおもてなし料理です。

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今年の料理は本当に自給率も高く豪華でした。

豚肉のチャーシューと煮卵
野菜たっぷりの鶏ガラスープ
農場産ソバ粉で作った手打ちそば
3年物のこんにゃく芋で作ったこんにゃくと大根の煮物
おなじくこんにゃくのピリ辛炒め
里芋のにっころがし(ゆず風味)
石窯ピザ(農場の小麦粉利用、トマトピューレ、ベーコンをのせて)
豚肉の岩塩包み焼き
小松菜のナムル
春菊の煮びたし
大根葉のおむすび
自家製梅干しとおかかのおむすび
つきたて餅(大根おろし、あんこ、きな粉も自家製)
各種おいものはいったグラタン
じゃがいも餅
キャベツやニンジンたっぷりのサラダ
大学イモ
シフォンケーキ

そして皆さんが持ってきてくれたスープや煮物、お漬物などなど。
どれもこれも美味しかったです。
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収穫祭中に色んなことをやりました。

「農場生産部バンド」によるオープニング演奏、露天風呂での足湯、スタッフやっちゃんがこっそり作ったもの展、写真や週報(会報)、発行物の展示、今と昔の比較写真、ドキュメンタリー映画「不安な質問」上映会、タイムカプセル(20年後にOpen)、里芋ほり体験、などもやりました。
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今年いっぱい、関係者からの文章を集めて、40年記念文集を作る予定です。
そして、みんなで撮った記念写真は、20年後にあける予定のタイムカプセルにいれたいと思っています。
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皆さんご参加ありがとうございました。
また来年も会いましょう^^

報告:姜

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by kurashilabo | 2014-11-03 21:26 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム 40周年特別コラム②

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 テーブルの上に農場の古い写真が乱雑に広げられていたので久しぶりにじっくり眺めた。どれも写真としてみればありきたりのスナップ写真にすぎないが、農場のその時その時を確かに切り取っている。もうほとんどが過去の人だが(死んだと言う意味ではアリマセン)その多彩な顔ぶれに驚き、そしてそのほとんどを自分が知っていることにまた驚く。それは自分の人生とこの農場のかかわりの深さを示してもいる。
 この農場には実に多くの人が来たし、また去って行った。農場スタッフだけを指折り数えてもかなりの数になる。研修や長期滞在を含めれば尚のこと。世話人やコアなメンバーとして農場と深く関わった都市会員を加えれば、その数は相当なものだ。会員としてあるいは短期滞在やイベント参加者などを含めれば数知れない。この農場の一番の特徴はと問われればこの関わった人の多さであり、人の流動性にあるといえよう。ひとつの農場が40年続くというのはそれだけでも大変なことだしたいしたものだ。だが、40年続いたということ自体は必ずしも珍しいこととは言えないかもしれない。しかしこれだけ人が入れ替わり立ち替わりしながら尚農場がここにあるというのは極めてレアな事例と言えるだろう。

 40周年などというと私たちはついひとつの組織なり実体としての農場が40年続いてきたと考えがちである。だがそれは違う。実体としての農場など実はどこにもないのである。分子生物学者の福岡伸一氏は生物の本質として“動的平衡”という概念を提唱している(「生物と無生物の間」、「動的平衡」等)。生物はリアルな実体としてそこに存在しているように私たちは思ってしまうが分子レベルでみると、細胞であれ骨であれ何から何まですごいスピードで入れ替わっており、その流動と平衡こそが生物の本質だというのである。そのアナロジーでいえばこの農場の特徴もまた動的平衡にあるといえるかもしれない。多くの人が来て、また去る、その絶えざる流れの中でその時その時にからくも現出する現象としての農場。ボクはかねてより農場は「場所」でありひとつの「容器」だと言ってきたがたぶん同じことである。あるいはまた「たまごの会には人の数だけたまごの会がある」という言い方をすることもあるがそれもおそらく同じことだ。
 それはまた農場に来た人が最初に感じるという「自由の気風」とも関連しているはずだ。ここは農場メンバーが自由な空間にしようと意識しているから自由なのではなく、開かれた「場所」動的平衡というこの農場のありよう自体が自由の根拠なのである。農場は「組織」になることを集団意志として避けてきた。NPOにしようとしたこともあったが、その必要性がはっきりしないことやなんとなく農場にそぐわない(かえってめんどうなだけ?)ということだろうか、立ち消えてしまった。立ち消えてしまっても農場は農場として続いてる。そして40年、結局任意団体のままである。

 任意団体というのは言ってみればサークル活動のようなもので、その時その時の活動があるだけだ。「任意団体なのにこれだけのことをやってきてたいしたものだ」というより「任意団体だからこそやってこれた」という方が本当に近い気がする。その時その時、ここを必要とし何かをやろうとする人が出現し、彼らに必要とされ利用されている限りにおいて農場は農場として現象しているといえようか。農場は常に行為的な現在として存在している。(そこをかっては「農場スタッフは決意集団」というような言い方をした)農場がありきたりの「組織」であったならもうとっくに破たんしていたはずだ。半ば気がつけば、半ば意識的に、そのようなスタイルで農場はやってきたのであり、そのありようは「初期設定」されていて、そこに「70年代的」を読むこともできるし、また立ち上げメンバーの思慮の深さもあったと言えるかもしれない。40年がすごいと思うのは曲がりなりにもそういう「場所」として40年という長き間維持してきてしまったということである。
 しかし半面それがここの「わかりにくさ」にもなっていたし、一期一会のものとして再現性のないものにしてきたともいえる。同じような「場所」を作ろうとしてもできないのである。一般化できないというのは自己満足で終わりかねないということでもあるだろう。またそのようなあり方は農場がいつまでたっても経済的(経営的)に自立できない(旧たまごの会の“遺産”に大きく依存)根本の理由ともなっている。経営という動機が成り立たないのである。

 世代が完全に交代すればこのような「70年代の遺物」スタイルは形骸化するしかないだろう。若い人たちがそれに替わる新しい形を生み出すのかどうか、そこが難しいところである。 S


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by kurashilabo | 2014-11-01 11:26 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)