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星降ル露天風呂づくりスタートです!

去る3月16-17日、ついに念願だった常設型の露天風呂(薪ボイラー型)を、手作りする企画がスタート! 
どんな露天風呂を作るか、仕組みからデザインまでみんなで考えて作ります。
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以下参加者からの報告です!
↓↓↓↓
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今年の建築イベントテーマは星フル露天風呂!

夜にオリオン座や流星群を眺めながら…
桜を眺め一杯飲みながら…
薔薇の花、ひのき、薬草などなど好きな香りで…

農場敷地内の古くなった小屋を壊して開放感のあるこのエリアに露天風呂を作ります。
3つの風呂釜の周りにはウッドデッキを敷いて着替えスペースを。目隠しの竹垣も竹の切り出しから始め、燻し加工などをして。置石をして離れから浴衣と下駄でお風呂にカランコロン音を立てながら向かうという和の情緒。浴衣も下駄も作る予定。ちょっとしたイベント時には足湯宴会なんかできるように配置を考えて…

もちろん、お湯はエコが一番!なので太陽温水器を設置して、温まったお湯をドラム缶で追い焚きして、各釜に供給するシステム。名付けてセントラル露天風呂システム!略してCRS(笑)

この2日間に集まった皆の意見で本格的なスペースが生まれそうです!10月位まで、あと四回の週末イベントで作り込んでいきます。まだまだ始まったばかりなので、作って見たい方、農場に遊びに来たい方、興味のある方、ぜひぜひご連絡ください〜! byえりつぃん
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「お風呂を作ろうとしているのに、温泉とかいっちゃだめだ!」という、サブリーダー・マサ君の熱いコメントを受けて、このシリーズでは、毎回以下のような形で五右衛門風呂を沸かして入る予定です。
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釜を3つ並べて、3人いっぺんに入れるようにするのだ!
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【1回目の作業】
配置の確定→整地
小屋の解体
竹の伐採→油抜き
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by kurashilabo | 2013-03-29 21:16 | (露天風呂作りまとめ) | Comments(0)

たまごの会のはなし①

 ややローカルな話になりますが、かってのたまごの会(暮らしの実験室の前身)の残したものに「不安な質問」という少し謎めいたタイトルの記録映画があります。ドキュメンタリー作家松川八洲雄氏の手によるものです。先日(といってもかなり前ですが)久しぶりに若い人たちと一緒にまた観ました。もう30年以上前の映画ですからみんな若い。現在65歳であれば35歳です。(当たり前ですが)。みんなキラキラと輝いていました。ボク自身は撮影の末尾に居合わせた農場スタッフ第2世代ですから登場しませんが、どの顔も知っていて懐かしくはありました。しかしどう言ったらいいか、相変わらずよくわからない、というか、いやわかりすぎるくらいよくわかるのですが・・・。映画が撮られた当時、すでに農場の共同生活は大変息苦しいものになっていたし、たまごの会自体も分裂含みだったからかもしれません。当時のスタッフでこの映画を素直に楽しめる人はいないのではないでしょうか。これはウソではないがホントでもないと。

 しかしこれを書きながらあれこれ考えていて、不意に腑に落ちるものがありました。松川氏はここでいっている言葉を使えば“贈与のレベル”を撮ろうとしたのではないかと。破綻しつつある共同生活、分裂含みのたまごの会の運営、そうしたバイアスを通しても尚あふれ出てくるある種の華やぎ。自ら(共同で)動物を飼い、植物を育て、それを運び、自ら皆で食べるという、共同自給という行為のなかにあふれ出てくる“贈与ワールド”。それに触れた時の驚きと華やぎ。交換的世界に慣れ親しんだ都市民が長らく忘れていた根本の明朗性、肯定性。そういうものを記録にとどめようとしたのではないかと思ったのです。そういう意味で「不安な質問」は単なるたまごの会の記録映画であることを越えて、ひとつの映像作品として仕上がっているということなのでしょう。そういう眼で見ると、たまごの会の“大分裂”(1980~82年)もまた違って見えてくるのではないでしょうか。(今更誰も関心なさそうですが)。

 分裂の一方は“契約派”と呼ばれ、他方は“農場派”と呼ばれましたが、あの分裂劇をわかりにくくしていたのはひとえに「“農場派”とは何か、何を目指すのか」が最後まで言葉にならなかったからです。様々に語られはしましたが「農場大事」と言うばかりでこれぞというものがなかった。それに比べて“契約派”の論理は大変わかり易いものでした。「地域の農家に慣行農法(近代農業)から有機農業へ転換してもらい、それを消費者が買い支える。農場はモデル的に有機農業を営むことはあるにせよ、そのための足場」というものでした。それは有機農業運動論をたまごの会に当てはめたものでした。農家(生産者)と消費者という関係を前提にし、あくまで問題を農業と食べ物の問題としてとらえるという立場です。しかしその論理ではたまごの会の(少なくとも共同自給農場という実践の)おもしろみ、深さは全く語れないというのが農場派のこだわったところでした。消費者はあくまで消費者、生産者は生産者という立場を越えることのない有機農業運動論では共同自給という実践の中で私たちが確かにこの眼で見、体で触れた“贈与ワールド”の面白さは語れない、都市民がはじめてそこに触れたということ、そこでの身体性と自然性を回復する快感、それこそがたまごの会のたまごの会たるゆえんであり、根源性なんだというのがおそらく彼らが感じていたことなのです。

 それは文明史的なテーマで、問題のレベルが違うのです。しかしそれをうまく語る言葉を時代はまだ用意できていませんでした。まだ“冷戦構造”の生きている時代でしたし。「別荘農場」とか「おあそび」とか「何のための農場なのか」などなど飛んでくる矢に対して「農場は大事」「農業ではなく農なんだ」「都市こそが問題」等々と言うのが精一杯だったのです。ひとり松川氏だけがそこを映像ですくいとっていたのかもしれません。 S

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映画「不安な質問」の一場面
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by kurashilabo | 2013-03-29 15:42 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム3月22日

 では、卵や野菜がどのようにして私たちのもとにもたらされるかというと、「恵みとして」と言う他ありません。それはどこからかプレゼントとしてやってくる。地上は光にあふれ、大地はうるおい、緑が繁り、生命の力に満ち溢れています。お米も卵も肉もその力が生み出し、それに属しています。そのひとかけらです。それをありがたくいただいているとしか言いようがありません。人はただの動物であった時代から「他の生き物を食っきた」し、そうして生きていくしかありません。確かに農業は人為として、彼らがよりよく育つ環境を用意し、生き物のもつ潜在的増殖性を解放して、最も効率よくそれを手に入れようとしますが、できるのはそれだけで、一片の肉も一粒の米も「生産」しているわけではありません。どこまでいっても「飼ったり」「育てたり」しているだけです。狩猟や採集で手に入れるか、「飼ったり、育てたり」して手に入れるかの違いだけです。農業だからといって、鶏や豚や野菜が人間の所有物になり、それを殺して食べてよい「権利」が生まれるなどということはありません。それはプレゼントとしてやってくる、それをありがたくいただいている、そう考えるしかないし、事実としてそうなのです。

 むろんのこと農業にははじめから目的があり「卵を得るためにニワトリを飼う」という言い方をします。そこで卵という目的と飼うという行為と因果で結びづけているのは経済で、その経済が農業という場を作っているのは言うまでもありません。それは人間の理性、合理性の為すところで、その論理の中ではニワトリも野菜も操作対象として「モノ」として扱われます。農業がそもそも野蛮である所以です。 

 しかし元来この経済はより大きな土台、あふれる緑の力、生命の海の上に浮かぶ小さな船のような経済です。それが実態です。ところがいつの頃からかその土台は忘却され、経済の面だけが農業として語られるようになりました。それはそう遠い昔のことではありません。長めにみても近代以降です。農業が生産・作物・家畜・圃場・統計・効率、コスト等々という近代的な言葉で語られるようになってからだと思います。不思議なものでそういう言葉で考えると経済としての農業しか見えなくなる。そこには言葉の詐術のようなものがあるのだけれど反論するのは難しい。そこで「近代農学」の果たした役割は小さくありません。昔の「野良稼ぎ」とか「豊年万作」などという言葉にはまだ農業がもっと広い世界で営まれていた時代の空気が残っている気がします。それはともかく1960年代以降の近代農業はその方向で純化をと遂げ、経済の論理一色になりました。農業者も研究者も経済しか語らず、土台について口にすればそれはただの郷愁として冷笑され、文学や民俗学の世界になってしまった。

 しかしここで言いたいのはそのことではありません。経済としての農業に慣れすぎたために、あるいは労働とか商品交換の論理に囚われているために現在ではほとんど見えなくなってはいるけれども、農業の土台は大きな贈与の論理できているということです。「飼う、育てる」も贈与であり、「生産物」もまた贈与としてもたらされます。その贈与のレベルにおいてこそニワトリも豚も野菜も、人と自然を媒介するものとして立ち現れる。彼らが生き物として、また食べ物として人と自然を媒介することによって人は自らの自然性、根本の明朗性を保償されている、そういうことではないかと思います。かってそれは言葉で語るまでもなく当たり前だったけれど、今では言葉で語ってもわかりにくいものになってしまいましたが。

 私たちが農業に関心をもったり、そこに暮らしの原風景を感じたりするのはその点においてではないかと思います。そこに現代ではすっかり失われてしまったけれど、未来を開く何かがあると直感しているのでしょう。農という営みが現代に対してもつ意味と言ってもいいかもしれません。それはいわゆる農業問題とは違うレベルの話です。ま、気の遠くなるような話ではありますが。S
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by kurashilabo | 2013-03-23 13:56 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム3月16日

 繰り返し言っていますが、動物を飼ったり花や野菜を育てるというのは子育てと同じでひたすらの贈与です。子どもも大きくなって自我や社会性をもつようになればいろいろ雑念も加わってくるかもしれませんが、小さな子どもを育てている時、将来自分を介護してくれるからとか、お金を稼いでくれるからといった見返りを期待している人はいないでしょう。子どもはひたすらかわいく、育っていること自体が楽しいはずです。それは親からのひたすらの贈与で、仮に子どもが大きくなってとるに足らない大人になったとしても、あの時与えた分を返せという人は普通いないと思う。子育てはそれ自体で完結していて、すでに十分お返しを受け取っているからです。相手が犬や猫でも同じです。かわいくて、育てること自体が楽しいから飼う訳です。むしろ相手が動物で雑念が入らない分、育てることの意味がよりピュアに露出しています。社会的なステイタスとして特別な品種にこだわる人も少なくありませんがそれは副次的なことです。
 かように子育てや、動物を飼ったり草花を育てたりする行為は見返りを期待しないという意味でいかなる交換でもなく、ひたすらの贈与と言っていいでしょう。そしてその贈与性こそが楽しく、その人を豊かにするのです。また、その関係にあっては相手は常に幼児だということも注意すべきです。人であれ、動物であれ、その人が自立し、自存できるのであればその関係は成立しません。相手が幼児で、まるごと自分が世話しなければいけないと思うからこその贈与なのです。そして相手を幼児として関係する時だけ、自分もまた幼児になれるということを見落としてはいけまえん。通常の社会生活では幼児化は許されません。大人としてそれなりの緊張の中にあります。ところが幼児や動物や草花を相手にした時は誰も幼児になることができる。それを誰も咎めずバカにもしません。それが犬や猫を飼ったり、草花を育てることのおもしろいところです。そして幼児化は最高の癒やしであるのは言うまでもありません。子煩悩なんて幼児化そのものではありませんか。もっとも仏教的にはそれは子どもへの愛着あるいは執着として“煩悩”ということになるのでしょうが。贈与性と幼児化(対象の、そして自分の)というのが飼う、育てるということの本質です。

 対象がいわゆる家畜の場合はまた違う要素が加わっていてわかりにくくなっています。ひとつは肉であれ卵であれ役畜であれ目的があって飼われているからです。そこには「飼育」というgiveがあり、肉や卵というtakeがある、あるいは飼育という「労働」が投下され、対価として「生産物」を得る、そのように見えます。これは交換であると。しかしこれは商品交換に慣れ親しんだ近代人の錯覚です。豚でも鶏でもいいから飼ってみればすぐわかりますが、飼うという行為においてペットも豚も鶏も違いはありません。むろん犬猫と違って豚や鶏は家畜として人にとっての親しみ易さ、かわいさ、美しさより生産性の高さで特化されているし、家畜は一般にマスが対象で作業としてルーティンワーク化されているから飼うこと自体を楽しむとは言い切れない時があります。犬猫と比べれば人との距離がある。しかし数が少なければ少ないだけよくわかりますが、飼うことにおいてペットと家畜に違いはありません。「飼う」というのはたわむれであり、ひたすらの贈与として、肉や卵という経済目的からは独立しています。飼育と収穫物を一連のものとしているのは経済です。経済としてみればそれは因果でつながっていますが、人間の行為としてみると「飼う」「育てる」という行為と、屠畜してお肉を得る、野菜を収穫するというのは別々のものです。それぞれに独立している。農業という観念に邪魔されてそこが見えにくくなっています。
 それは人類史的時間軸でみるとよくわかります。動物を狩って肉を得るとか植物を採集して食べたりするのは、もうずっと昔、旧石器時代、いやサルの時代から動物としてずっと続けていることです。屠畜も野菜の収穫も、狩猟採集の変形です。ルーティンワーク化し、堕落した狩猟採集です。それに対して「飼う」とか「栽培する」というのはたかだか一万年ちょっと前の新石器時代からであり、それに食糧の過半を依存するようになったのは農業革命以後、メソポタミアやエジプト、中国などでいわゆる四大文明が成立して以後のことにすぎません。ついこないだのことです。飼う、栽培すると、お肉や野菜という収穫物を得るというのは、かように出自が違い、性格が違うのです。そこが農業のわかりにくいところであり、秘密であり、間違い易いところです。 S
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by kurashilabo | 2013-03-17 13:52 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム3月9日

2月中は真冬の冷え込みで、池も一面氷結していたが、先日二日ばかり、台風のような突風が猛烈に吹き荒れてトタンやスレート瓦が飛んでヤレヤレと思っていたら、以後、突然、完璧に春になった。驚くばかりである。
今日も暖かく、鶏舎裏の畑で土掘りをしていると何やら春霞、今日はモヤがかかっているなぁと思ったら、何と、まわりの杉林から煙の如く花粉が舞いあがっているではないか。それでモヤっていたのだ。ボクは花粉症ではないが、春は多少鼻がぐずったり、目がかゆかったりはする。今日も鼻をグズグズさせながら花粉が舞い上がる様を眺めていたら病も気からというべきか、だんだん頭まで重くなってきた。
 
 アトピーなどアレルギー性の疾患は生活が過剰に清潔になり、その結果寄生虫が減ったためだという有力な説がある。動物はそのはじめから寄生虫と共に生きてきたので、寄生虫がいなくなると体内生態系(?)が狂ってしまうという訳である。ボクは豚プン、鶏糞、犬糞、猫糞にまみれて生活してきたし、部屋の掃除もほどほどにしているのでアレルギーとは縁がないと思ってきたが、それもどうも怪しい。突然花粉症になることもあるらしい。

 放射能も杉花粉のように目に見え、不快な症状がでるならば皆脱原発に必死になるに違いない。しかし幸か不幸か放射能は目に見えず痛くも痒くもない。放射能というのは観念なのである。だから妖怪のように思える時もあるし、気にしなければ忘れていられる。ボクは日常ほとんど忘れている。福島の除染作業の手抜きが報じられたりするが、さもありなんと作業員の人たちに同情する。除染するといってもそこにゴミのように放射能が見えている訳ではない。日々パントマイムのような作業に精神が耐えられるはずがないのだ。それに除染と言っても精々レベルが半分になったとか3割になったという位が関の山、そして除去された放射能もただ場所を移すだけで無くなる訳ではない。残っている3割や半分もそれなら安全という根拠もない。そんな作業は人間的ではない。ボクだって手抜きする。山の除染を言う人もいるが正気の沙汰とは思えない。山は広いし、平らではないし、木や草でいっぱいだ。山は動物たちに返すしかないのだ。

 杉花粉の春霞の中、ボクは今日一日畑に穴を掘っていた。縦・横3×6m、深さ2mの穴を掘るのである。何のためかは企業秘密だ。バックフォー(ユンボ)があるから楽ちんだ。30センチ位の(たったそれだけしかない)茶色の表土をはぐと青白い粘土層が現れる。それを更に掘り進むと1.5m位で山砂の層が出てくる。どのような現象が起きてこんな厚い砂の層が形成されたのか不思議なのだが、畑の場所によっては地表から20センチくらいで山砂となり、2m掘っても3m掘っても砂ばかりのところがある。そのようなところは何を作付してもまともに育たないので荒らしてある。ギシギシやセイタカアワダチソウはそんなところでも育つのだからたくましい。堀ったあとの地層を眺めるのが好きだ。何か秘密が隠されているようでワクワクする。そこにあるのは人間の世俗を離れた永遠という時だ。目に見えず手でも触れない放射能はすっかり忘れて土を掘る。何もかも忘れていられる。精神衛生上とてもよい。とはいえ放射能を忘れてはいけないと理性が言うので、明日は東京の反原発集会に行くが、除染と同じで徒労のような気もする。 S

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中にいるのはスタッフの茨木
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by kurashilabo | 2013-03-10 13:48 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

2013年 年間スケジュール

今年もみなさんと一緒に、楽しく、ためになる機会を準備していますので、ぜひ暮らしのじっけん室やさと農場に遊びにきてください!(一生懸命イラスト描きました)


c0177665_13341931.gif星降ル露天風呂(やかまし・建築)
ゴエモン式の露天風呂を製作します。満天の空の下、季節の花々を愛でながら入れるお風呂釜を3つ並べる予定です。周辺の風景から風呂場のデザインまでをアイデアを出し合って作っていきます。
■全5回 ①3月16日~17日 ②4月27日~29日 ③6月1日~2日
      ④8月10日~11日 ⑤10月26日~27日(全て土日)


c0177665_13344640.gif稲豆学園 水稲部/陸豆部
駆け抜ける青春をもう一度。一年をかけて、お米と大豆を育て、最後に味噌仕込みを行います。部員との楽しい交流や、季節の変化を肌で感じながらの部活動。はじめての方も安心して入部できます。
■お米①5月18~19日 ②6月8~9日 ③6月22~23日 ④9月14~15日
■大豆 ①6月29~30日②7月27~28日③11月4日④11月30日~12月1日
●味噌仕込み2月(全て土日)


c0177665_13355468.gif農×陶芸 盆景作り-自然と暮らしと文化のつながりを感じる-
1回目は粘土で器を作り、春の畑で農体験。2回目は土や苔、野草、石を集め、器の中に自分だけの森を創り、完成後は自分の部屋にその森を持って帰ります。私たちの暮らしが、自然からのいただきもので成り立っていることに気づくきっかけになればと思います。
■全2回 ①3月23日~24日 ②5月5日~6日(全て土日)


c0177665_13351692.gif作って食べよう(ソーセージ、ハンバーガー、ラーメン)
普段何気なく(自分では作らずに)食べている食べ物を自分で作ることで、技の習得だけでなく、農的生活の美味しい発見があります。やさとのお野菜や鶏、豚肉を使います
■全3回(単発) ●ソーセージ 3月30日~31日
           ●ハンバーガー 7月13日~14日(予定)
           ●ラーメン 12月7日~8日(全て土日)


c0177665_13352978.gif暮らしのじっけん室 収穫祭2013
毎年恒例の収穫祭です。私たちのいのちをつなぐ食べ物を生み出す大地や自然に感謝して、収穫をお祝いする機会。普段農場に来ない方もぜひお気軽にご参加ください。11時頃~16時頃の日帰りイベントです。
■11日3日(日) ※土曜日に前夜祭も行います


c0177665_13361886.gif炭窯作り(非イベント)
竹炭を作りたいので、炭窯を作ろうと思っています。竹炭家畜の餌に使おうと考えていますが、日常生活でも脱臭材としてすごいパワーを持っています。竹は地域でいくらでも取れる資源なので、活用しない手はありません!


c0177665_13363076.gifソーラー発電(非イベント)
大規模は発電を行えなくても、日常的にちょっとした事に使える自家発電は心強いものです。いざという時のエネルギーとしても使えます。有志で出資して購入予定。


c0177665_13363860.gifバイオガスプラント(非イベント)
ウンコからエネルギーを発生させられたらどんなに良いことだろう。ウンコを燃やすのに、どれだけの重油が使われているか知ってる?家畜のウンコは畑の肥料になっているのに、人間のウンコはゴミなんて絶対おかしい!そんな思いで、プラントを作りたいなぁと思っています。


年間スケジュール
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*個人や団体などでの農体験を申し込まれる方はスケジュールのご相談ください。
*一部、灰色になっている土曜日は、暮らしのじっけん室の運営会議の予定ですが、会議自体はバラ色な事が期待されています。
*10/13(日)の「八豊祭」は暮らしのじっけん室の事業ではありませんが、スタッフが関わっているため、掲載しました。
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by kurashilabo | 2013-03-05 16:40 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム3月2日

 3年ほど前の収穫祭で“鎮魂の儀礼”のマネゴトをやったことがあります。天にも届くような火を焚いて、「かしこみかしこみ申す・・・」という、にわか作りの祝詞を地の神に贈り、豚や鶏や米、野菜の霊をあの世に送るというものです。漠然とですがアイヌのイヨマンテ(熊祭り)のイメージが頭にありました。アイヌの神話世界では火の神はこの世とあの世をつなぐメッセンジャーなのです。「かしこみかしこみ・・・」はむろん神道の方からの借りものですが、こういう時は日常語ではない「ことば」が必要です。またスタッフは豚や鶏のかぶりものをユーモラスに着けて、儀式の間はことばを発しないことにしていました。人間世界から切れているという演出です。こういうことはマジメにやればやるほど滑稽になってしまいますから、始めから“演劇”としてやるしかないと思っていました。むろんそれは収穫祭の“おふざけ”の一幕だったのですが、意外なことに自分の中でほんの少しだけですが気持ちが晴れたのでした。その時儀式とか儀礼とかいうものはこういうことなのかと気が付きました。中身があるから儀式をやるのではなく、形を与えることで中身が立ち上がってくるということです。

 さて農業、とりわけ畜産は魂あるものたちを無きものにするのであるから、その魂を鎮めなければなりません。これはごく自然の心情であるはずなのに、その出口が閉ざされています。それが故に結果として自分の中に負の何かが残り、蓄積して自分の魂をも暗くしていくということになります。日常、自分では気づいていなくとも抱え込んでいるものがあるのです。その抱え込んでいるものは“儀礼”という形がなければ出して鎮めるということができません。

 農業は元来、沢山の儀礼や年中行事を暦として持っていました。しかし明治以降の近代化の過程で、とりわけ戦後の、現在から振り返れば多少異常にさえも思える進歩信仰、科学信仰、工業立国という狂躁の中で、それは古いもの非科学的なもの、因習として捨て去られてしまいまいた。確かに近代的な個人にとってそれらは封建的な、桎梏(しっこく)*1であったのも事実なのでしょう。しかしより深いところで、それは人々が自然や時間と親和的に生きるための不可欠の智慧なのだということはまだ気付かれていませんでした。そんなことは問題にならない時代でした。いわゆる現在の近代化農業はそうした儀礼、年中行事、暦を解体し、更地にして、はじめて立ち上がることができたのです。その意味をよく考えなければなりません。農業近代化批判を農薬や堆肥といった農法レベルだけで事足れりとするなら全く不十分です。そしてまた、近代化農業批判としてはじまった有機農業というムーブメントも、その同じ更地の上にあったことも注意すべきです。私たちは未だにその更地の上でもがいています。

 魂や儀礼や暦を語るというのは動物たちや自然や時間との関係のあり方、作り方の問題です。そこにカタチを与え、生活のベースに組み込んでいくことが必要ではないかと思っています。それは自然や時間を“わがものにする”ことであり、それができてはじめて私たちの農業は反近代農業、スキマ商売に過ぎないものから脱皮してリアルに“農的”世界に歩み入ることになるのではないでしょうか。 S

*1《「桎」は足かせ、「梏」は手かせの意》人の行動を厳しく制限して自由を束縛するもの。

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2010年の収穫祭にて執り行った鎮魂の儀式の様子
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by kurashilabo | 2013-03-03 11:56 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)