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ふみきコラム2月23日

 少し前の新聞に「現代とペット」という特集記事があり、それによれば現在ではペットの犬や猫をわが子と同様に「この子」と呼ぶのが普通なのだそうです。ボクも以前、ちょっと失敗をした経験があります。可愛くもないちんちくりんな犬に服を着せて、散歩をさせていた御婦人に(親愛の情を込めたつもりだったのですが)「この犬オス?メス?」と聞いてしまってちょっといやな顔をされたことがありました。このような場合は「この子は男の子?女の子?」と問わなければいけないのです。日常、豚や鶏をみていて、オスとかメスかいう認識ですから、「この子」も「男の子」もちょっとベタベタ感というか幼児性のようなものが気持ち悪い、いや悪かったのです。ボクも人間ができてきたのか最近は普通に「このワンちゃん、男の子かな?」などと声を掛けることができるようになりましたが。

 ボクはこうした傾向を長らく幼児化という理解できたのですが、それだけではないと最近は考えるようになりました。例の「生類憐みの令」関係の本を読んでいて気付いたのです。元禄の頃のこと、この法令にかかわって犬や牛や馬の戸籍簿のようなものが作られました。その記述は皆「男馬三頭」「あかふち毛男犬」「しろ毛女犬」で、考えてみれば当然ながらオスとかメスとかいう言葉は使われていません。オス、メスという言い方は近代になってからの学問上ないし行政上の用語で、それまではみな、「男か女か」だったのです。
 そしてまたごく私的に思い出したのは、その昔、ボクが飼っていた犬を見て近所のジイさんが「男か?女か?」と言っていたことです。ボクは動物はオスとかメスと言うのが普通だと思っていましたから、その言い方が少し変に聞こえて記憶に残っていたのですが。今になって思えばそのジイさんの方が“伝統的”な言葉遣いだったのです。「この子男の子?女の子?」という言い方は単なる幼児化ではなく、伝統(的精神)への回帰でもあるのでしょう。

 また繰り返し言っているように、“飼う”というのは人の行為として意味的には子育てと同じです。だから深く飼えばそれだけ「この犬はオス?メス?」ではなく「この子は男の子?女の子?」になっていき、それは正しい言い方でもあるのです。こんな些細なことにこだわるのは「この犬はオス?メス?」と問う精神には“動物の魂”などという問題は立ち上がってこないと思うからです。一方「男の子?女の子」と問う場合は人と同様にみている訳ですから“犬にも魂はある”というのは当然のことなのではないでしょうか。ボクは至って散文的な近代人ですから魂や霊などというものを実感としても実体としても本気で考えたことがありません。そのように呼ばれる現象が仮にあるとしても、それは人類の定向進化の結果、特異的に発達した中枢神経(脳)のもたらすイタズラだと思っています。ないものが見えたり、ない音が聞こえたりするのが人間の脳のおもしろい(怖い)ところです。もっとも魂を自我、他ならぬ“私という意識そのもの”と考えるならば、そんな断り書きも必要なく誰にでも当然ある訳です。

 動物の魂となると、サテ、どうなのでしょう。動物の頭の中は知るよしもありません。魂を“私という意識”と考えるならば彼らにはなさそうだし。しかしこの問題は実践的には実はすでに解決済みなのです。“飼う”というのは子育てと同じだと言いましたが、より本質的な言い方をすればそれは“ひたすらの贈与”です。そして人はただのモノにすぎないものに贈与するということはありません。逆に言えばひたすらの贈与という行為が成立しているならば、その時人は対象に人格のようなもの、ここの言葉でいえば魂をほとんど無意識に認めています。子育てはむろんのこと、神への奉仕であれ、犬猫を飼うであれ、そこに人格のようなものを認めなければそのような行為は成り立ちようがありません。そして贈与が深まるにつれ魂もよりリアルに立ち上がってくるのではないでしょうか。仏師が木に仏を彫り出せばそこに魂が宿りはじめるのと同じです。かように魂というの行為的にたち現れるものだと思います。

 近代がもたらした“客観的な”世界認識を誰もが疑われなくなる以前の時代、人が普通にキツネにだまされていた時代、更には神話の時代、人は外界を認識する時、人になぞらえて理解するのが普通でした。擬人化ですが、そのような世界では魂は動物だけではなく、あらゆるものに宿っていたのではと想像しています。人は元来、そのようにしてしか人や生き物やモノに関係できない存在なのでしょう。人とかかわりなく生きる動物たちに魂があるかどうかを論じたとてあまり意味あるとは思えません。魂とは人が自らに似せて世界を認識し、それに触れ、贈与的関係を深めるなかで対象に宿る何かであり、客観的視座と交換的世界に生きる人にはおそらくは実感できない性質のものなのです。 S

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愛犬シロと山羊に囲まれる鈴木さん
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by kurashilabo | 2013-02-24 11:39 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム2月16日

(前回からの続き)いまひとつは“肉を食べることは許されている(必要ならば動物を殺してもよい)”と誰かが公認してくれることです。できれば神話や宗教のように、あえて言わなくても社会の誰もが承認できるものとして。この場合はタブーは解除されませんが罪の意識を軽くすることはできます。例えばキリスト教はそのような形になっています。だからもしボクがキリスト教圏の人間であったならば、この問題でグダグダ悩まないで済むはずです。キリスト教では人間と動物はそもそも存在としてのレベルが違うのであり、人は動物の管理者であり、彼らは人のために作らているとされているからです。そこでは良き管理者、正しく管理することは求められても、屠畜して肉を食べること自体は何ら問題ではありません。キリスト教(ユダヤ教)は遊牧民の宗教として立ち上がってきたものですからそれは当然といえば当然のことです。現代ではそれへの批判も当然ある訳ですが、文化風土としては今尚そうでしょう。

日本では明治の文明開化として肉食を欧米より取り入れましたが、同時にその時“動物は人が管理して利用するものとして存在する”というキリスト教の思想を「家畜」という言葉を造語することで取り込みました。それは“思想のつまみ食い”として実に上手なやり方だったかもしれません。その時から牛や豚は「家畜だから」殺して食べてもよいということになり、それは現在では牛も豚も鶏も「産業動物だから」という言い方になって近代畜産をイデオロギー的に支えています。「家畜」「産業動物」という言葉がなければ畜産はたちあがることも、立ち行くこともできません。

さて、ボクには聖書はありません。かといって仏教徒というのでもありません。葬式や法事でお寺に行き、お経を唱えたからといって仏教徒ではないでしょう。神社に初詣でに行ったからといって神道を信じているともいえません。にもかかわらず、「動物を殺すことは、本当は良くないことだ」ということをあらかじめ知っているようなのです。「どうして殺してはいけないのかは知らないのに、殺すことは良くないことだということを知っている」というのは不思議です。この列島のい歴史の中で“殺生(セッショウ)”という言葉がDNAとなってボクにも遺伝し、血肉となっているのでしょうか。“殺生”という言葉の意味するところをすぐ理解できるということにおいて、ボクは仏教徒だと言っていいのかもしれません。殺生というのはむろん単に「生き物を殺す」という意味ではありません。すでに「それは良くないことである」というイデオロギーを含んだ言葉です。それは「家畜」という言葉が「必要あらば動物を殺してもよい」というメッセージをあらかじめ含んでいるのと同じです。

「鎮魂の儀礼」などというわかりにくことを言っている訳ですが、このような文化風土に育った者が“殺生”するとすれば、鎮魂ということもまた必要となるのではないでしょうか。慰霊と言っても同じです。祀ることで彼らの魂を鎮め、同時に自らの魂を鎮める以外に方法はありません。それがこの地の古来よりのやり方です。それはまた(やむを得ず殺生したが)本当は良くないことなのだというメッセージとなり、屠畜のもっている「必要ならば動物を殺してもよい」というメッセージを相殺するものとして機能するはずです。「家畜だから」殺してよい、という論理を使わずに屠畜を了解するとすれば、このような理路を使うしかありません。

とはいうものの、鎮魂といい儀礼といい、民俗学ならいざ知らず、ボクらの日常用語ではありません。全くの近代人たるボクたちの辞書にはそんな言葉はありません。はたまた鎮魂など本来人に対してするもので、動物対して使うとすれば、牛にも豚にも魂はあるのだとまず言わなければなりません。それはまた。(続く)S
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by kurashilabo | 2013-02-18 11:35 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

やかまし村2013建築ワークショップ 「星降ル露天風呂」

見上げれば満点の空に包まれるような そんなお風呂に入りたい

春には桜を、秋には紅葉を詠うような そんなお風呂を入りたい

自分一人が入ってちょうど収まる位の小さなごえもん風呂が3つ

みんなで喋って笑って、今日の疲れが明日の元気に変わるような

ふーっと力が抜けて、自然とこれからの未来に思いが巡るような

そんなお風呂を作りたい

あなたと一緒に


やかまし村2013建築ワークショップ

テーマ「星降ル露天風呂つくり」


【実施概要】
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2010年のツリーハウス、11年の縄文ハウスに続き、
2013年は手作りでゴエモン式の露天風呂を製作します。
ゴエモン風呂はもちろん、薪でお湯を沸かす究極のエコ風呂。
誰もがリラックスして入れるように、周辺の風景から
風呂場のデザインまでをアイデアを出し合って作っていきます。

露天風呂に興味がある人
モノづくりに興味がある人
間伐材の利用に興味がある人
自然エネルギーに興味がある人
みんなで作ることに興味がある人

そんなあなたと一緒に露天風呂を作りましょう。

■作業日程 全5回
①3月16日(土)~17日(日)
②4月27日(土)~29日(日)
③6月1日(土)~2日(日)
④8月10日(土)~11日(日)
⑤10月26日(土)~27日(日)

第一回目はみんなで完成イメージを妄想してデザイン設計するので、ぜひ1回目から一緒に作りましょう!整地から風呂釜設置まで一緒に作ると、最終日の初五右衛門風呂も格別!できるだけ全回参加してもらえるといいですが、各回参加もWelcomです!

■会場:暮らしの実験室やさと農場(茨城県石岡市柿岡1297)

■行き方
上野発常磐線で90分、石岡駅からバスで25分 
柿岡車庫行きに乗って柿岡停留所で下車、徒歩15分です。
詳細は http://yasatofarm.exblog.jp/10844737/
※10:35石岡駅発のバスがあります。

■基本スケジュール
【1日目】
11:15 農場集合
午後  イメージ妄想大会&整地作業
夜   妄想デザインワークショップ
【2日目】
午前  整地作業
午後  竹垣づくり
16:00 解散予定

■第1回の作業予定
これが五右衛門風呂だ!!釜のお披露目
露天風呂のイメージ妄想大会
世界の露天風呂を比較検討
秘密ののぞき穴をあけちゃう!?竹垣作りの準備。
風呂釜を設置する場所の整地作業

*みんなで食べるご飯は、新鮮な野菜や卵、お肉等を
使って自分たちで作ります。生みたての卵や、
畑から採れたての野菜を堪能できるのも「やかまし村」の魅力!

■持ち物
汚れてもよい服装・靴、お泊りセット
使いたい工具類

■参加費:各7,000円(宿泊、食事4回分、企画費)
     日帰り4000円
※暮らしの実験室会員は2,000円(日帰り1500円)引き
※参加費には、農場の野菜肉卵1,000円分と交換できるチケット(ヤッカ)が含まれます。
※希望者には近くに温泉施設があります。代金自己負担。
※飲みたい人はお酒の持ち込みは自由です。代金自己負担。

■宿泊定員:18名

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【申し込み方法】
下記URLからお申し込みください。
http://goo.gl/Rrnhk
(参加申請頂いた方に後日案内メールをお送りさせて頂きます)

※定員に達した場合は締め切ります。こちらからご連絡いたします。
※開催予定日2日前から一部キャンセル料が発生しますのでご留意ください
 (全日2日参加⇒2000円、1日参加⇒1000円)
※質問がある方は下記アドレスまでお気軽にメールください!
 kurashilabo@gmail.com
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★暮らしの実験室やさと農場とは?(茨城県石岡市)
「暮らしは自らの手で作り出すもの」
それが「暮らしの実験室」が大切にしているメッセージです。
にわとり、豚、ヤギ、犬や猫などの動物たちが共に暮らす開放的な空間。
38年間無農薬でやってきた畑からとれる四季折々の恵みをわかちあう喜び。
農を通していのちのつながり、もうひとつの生き方を提案しています。
http://www.kurashilabo.net/
http://www.facebook.com/yasato.farm

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★やかまし村とは?
2008年5月4日。僕らはやさと農場で"村づくり"を始めた。
村おこしではなく、村づくりである。名前は"やかまし村"。
やかまし村は、茨城県のやさと農場での週末農体験イベントや
都会でのシェアハウス生活を通じて、食べることや人とのつながり、
自然との関わり方など、自分たちの生活を見つめ直すきっかけの場を提供しています。
皆が共存しながら生活している「やさと農場」という場所を活かして、自分たちがやりたい事、
やってみたい事を企画して実現したり、自分自身を表現できる場でありたいと思っています。
http://noisyvillage.org/
http://www.facebook.com/yakamashimura

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by kurashilabo | 2013-02-12 15:35 | お知らせ(告知) | Comments(0)

2013年やかまし村企画 陶芸×農

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自然と暮らしと文化の繋がりを感じる
~盆景作りを通して、自分の森を創造しよう!~
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農業や建築、森をキーワードに展開してきたやかまし村イベント、
今回のテーマは「盆景」です!!

盆景とは、お盆の上に土、石、苔、草木を配置して、自然の風景を創り出す
日本の伝統芸術です。樹木単体から自然の美を想起させる盆栽とは異なり、
配置や景色の工夫を凝らすことで自然の風景の美しさを表現します。

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1、今回のやかまし村は…
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自然からのいただきもので成り立つ、私たちの暮らし。
過去からのいただきもので成り立つ、私たちの暮らし。
与えられたものに感謝し、受け入れ、それぞれの感性を生かして新しい未来を作る。

同じ景色、同じ自然から採ってきたはずの草花も、作る人それぞれの森の姿へ…
みんなで作るけど、同じものはふたつとない、自分ならではの雄大な森を創造します!

昔から、自然や農的な暮らしの中で生まれてきた文化は、生活を、地域の繋がりを豊かにしてきました。
筑波山系に囲まれた美しく豊かな自然あふれるやさとを舞台に、土や野菜や動物と向き合い、
丁寧な暮らしを実現するやさと農場での農体験、陶芸家さんのもとでの陶芸体験を通して、
素敵な仲間と共に、自らの手で創り出す暮らしを楽しみましょう♪

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2、実施概要
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本企画は二部構成になっています。

■ 第1回目 3月23日(土)~24日(日)
 盆景の土台となる鉢植え(陶器)を作ります。
■ 第2回目 5月5日(日)~6日(月)
 やさとの里山で、苔、山野草、石等を採集して盆景にします。
※各回ごとの参加も可能です。1回目のみの参加は、食器でもオブジェでもご自由に作成いただけます
(作品送料は別途自己負担)。2回目のみの参加は、購入した既製鉢で盆景づくりをします。

場所:暮らしの実験室やさと農場
    〒315-0116 茨城県石岡市柿岡1297-1
集合:上野駅改札前8時 (08:40発 常磐線に乗って10:16石岡着)
   ※お車・別路線で来られる方は11:00に現地集合でお願いします。
解散:日曜日の16時頃現地解散を予定しています。

スケジュール:
1日目 昼 陶芸体験(前半)、 夜 夜のお楽しみ企画
2日目 朝 やさと農場農体験、昼 陶芸体験(後半)

持ち物:汚れてもよい服装・靴、お泊りセット、エプロン

1回目の参加費:9,500円(宿泊費、食事4回、陶芸体験費用込み)
 ※暮らしの実験室会員は2,000円引き
 ※参加費には、農場の野菜肉卵1,000円分と交換できるチケットが含まれます。
 ※希望者には近くに温泉施設があります。代金自己負担。
 ※飲みたい人はお酒の持ち込みは自由です。代金自己負担。

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3、申込み方法
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定 員 :15名(定員に達し次第締め切り)
申込期限:2013年3月10日(日)

申込方法:こちらのフォームからお願いします http://www.noisyvillage.org/resist
(このURLから申込みをいただいた方に、持ち物や詳細のご案内を当日までに、
お送りさせていただきます)

※ facebookで参加希望していただいた方も、必ずこちらの申し込みフォームよりお申し込みください
※ 開催日5日前よりキャンセル料(2000円)が発生します
※ 質問がある方は下記アドレスまで(お気軽にメールください!)
やかまし村 村長 井口 恵(めぐ)、遠山 浩司(ひろし) info@noisyvillage.org

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★陶芸家 飯田 卓也 さん
瀬戸の陶芸学校を卒業後、米国での陶芸活動を展開、その後やさとに移住。
自宅をセルフビルド、食料や生活インフラを自給する等、半農半陶生活を満喫されています。
色々なものを収集している飯田さんの雑多としたご自宅には、力強い生活力を感じる
宝箱のような驚きがいっぱいです!
こんこんギャラリー http://gkonkon.exblog.jp/
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★暮らしの実験室やさと農場とは?(茨城県石岡市)
「暮らしは自らの手で作り出すもの」
それが「暮らしの実験室」が大切にしているメッセージです。
にわとり、豚、ヤギ、犬や猫などの動物たちが共に暮らす開放的な空間。
38年間無農薬でやってきた畑からとれる四季折々の恵みをわかちあう喜び。
農を通していのちのつながり、もうひとつの生き方を提案しています。
http://www.kurashilabo.net/
http://www.facebook.com/yasato.farm

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★やかまし村とは?
2008年5月4日。僕らはやさと農場で"村づくり"を始めた。
村おこしではなく、村づくりである。名前は"やかまし村"。
やかまし村は、茨城県のやさと農場での週末農体験イベントや
都会でのシェアハウス生活を通じて、食べることや人とのつながり、
自然との関わり方など、自分たちの生活を見つめ直すきっかけの場を提供しています。
皆が共存しながら生活している「やさと農場」という場所を活かして、自分たちがやりたい事、
やってみたい事を企画して実現したり、自分自身を表現できる場でありたいと思っています。
http://noisyvillage.org/
http://www.facebook.com/yakamashimura

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by kurashilabo | 2013-02-12 10:37 | お知らせ(告知) | Comments(0)

目指せ燻製マスター「ソーセージを作ろうwithベーコン作り」

今年もやってきました。待ちに待ったソーセージ作りのシーズン到来!!
本年度も「季節(四季)を楽しむ会」と「やさと農場」がコラボをして、ソーセージ及びベーコン作りを行います。自分たちで作って、美味しく食べる体験イベント。農場で大切に育てられた黒豚を使い、ハーブや香辛料も入れて自分好みのソーセージを作りましょう♪
きっと自分が作りたいソーセージを想いをこめて手作りで作ったら、自宅の食卓もいっそう盛り上がるはず。
オプションで、今回はなんとベーコンも仕込みから作れちゃいます。ぜひぜひ、ふるってご参加ください。

日時:3月30日(土)11:00〜/31日(日)9:00〜16:00終了予定
場所:暮らしの実験室やさと農場(茨城県石岡市1297-1)

<参加費>
1泊2日 8,500円(宿泊費・食事代・材料費込)+別途交通費
日帰り 5,500円(食事代・材料費込)+別途交通費
*2日前からキャンセル料がかかります。
 木曜日は1500円、金曜以降当日は2500円。
 日帰りの人は1500円(木曜以降当日まで)。

定員:18名

<オプション:ベーコンの仕込み>
農場での燻製の10日程前に、都内でベーコンの仕込みを行います。
日時、場所の詳細は別途ご連絡します。
自分で仕込んだベーコンは薫煙後、お持ち帰りいただけます。

参加費 2000円(精肉代+塩、ハーブなど)

備考:仕込みから、本番(燻製)まで参加した方は、お土産としてソーセージ300gとベーコンが500g(原材料換算)がついてきます(ベーコンは燻製で、小さくなるので、実際には400gぐらいになります)。オプションに参加していない方はソーセージだけお持ち帰りできます。

<当日の予定プログラムはこちら>
30日(土)
11時~ やさと農場集合 (受付)
    農場見学
12時~ お昼
13時~ プログラム開始(下ごしらえなど)
14時~ 同時並行で、ベーコンの燻製作業を開始
    ソーセージの試作品(晩御飯用)をいくつか作ります。
16時~ 夕食の準備
18時~ 夕食 (鍋予定)
19時30分~ 風呂(温泉予定)
21時30分~ 夜の宴 (ソーセージのおつまみなど)

31日(日)
8時~:朝食
9時~:作業開始(各々ソーセージ作り)
12時~:お昼予定
13時~:午後から作業開始
~16時:撤収予定

*土曜日の夕食、日曜の朝食と昼食は、みんなで作って食べます。やさと農場の採れたて新鮮オーガニック野菜と卵を堪能しちゃおう!

<持ち物>
お泊まりセット一式、エプロン、手ぬぐい
ソーセージ持ち帰り用の容器、個人的にソーセージに入れたいもの(基本的な調味料はこちらで用意します) 、燻製したいもの(チーズとか)

<申込方法>
FBの参加申請だけでは、正式な申込になりません。フォームからの登録をよろしくお願いします。

こちらより申込みください。

★申込締切:3月3日(日) ※定員になり次第締め切ります

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また、この翌週の4月6日には、このソーセージやその他旬な食材や豪華食材を集めまして、お花見をいたします。そちらにも興味がありましたら、別途ご案内をいたしますので、ご連絡ください。
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by kurashilabo | 2013-02-11 10:46 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム2月9日

 屠殺には特有のいやなものがあります。その“いやな感じ”がどこからやってくるのか、それについては以前触れたのでここでは簡単にまとめておきます。ひとつは身心が平常な時には(アドレナリンが全身にめぐっていない状態の時)人は動物を殺すことができないようにできている、ということです。(ここで動物と言っているのは、犬、猫、牛、豚サイズのケモノたちの意味です)これはおそらく人だけでなく、他の動物も同じだと思います、平常時にも「殺す」という回路が開いたままでは種族の(仲間の)維持ができないからです。屠畜というのは平常の精神のまま、ルーティンワークのように動物を殺すことで、それは人の(ケモノとしての)深いタブーに触れていることになるので。これが同じく動物を殺すでも、石器時代のように山野を駆け巡り、自分もまた殺されるかもしれないという状況での(全身アドレナリンがみなぎる)狩猟では「殺しは快楽」となるのです。ハイな状態にならなければ「殺し」はできないのです。動物を殺すというのは狩猟なのであり、それだけ激しい行為だということです。日常的に狩猟モードに入っていては危険です。屠殺のあのいやな気持ちはタブーに触れているというシグナルな訳です。

 いまひとつは家畜を屠殺しその肉を食べるというのは意味的には「子殺し」「共喰い(トモグイ)」になっているということです。家畜は「飼う」という行為とともにある訳ですから「飼う」というのは人にとっては子育てと同じです。それはペットをみればよくわかります。犬や猫を飼う人はよくわかると思いますが、飼うという行為の中では犬も猫も“うちの子”であって動物ではありません。名前を漬けるということ自体が人としてみているということですから。相手が牛や豚であっても飼うということに何ら違いはありません。(家畜と呼ぶことで違いをつけている)それゆえ飼っている人が牛や豚を屠畜すると意味的には「子殺し」「共喰い」になってしまうのです。動物は(人はむろんのこと)それができるようには作られていません。ここでもまた深いタブーに触れているのです。動物を飼い、そして殺すというのはかように難しい問題を抱えた営みで、それ故に新石器革命以後(牧畜が始まって以来)屠畜は何かしら忌むべきものとして人を悩ましてきたのです。

 しかし屠畜に伴う“いやな感じ”“忌むべきこと”を為さなければ肉は手に入りません。ひとつのやり方は屠畜を祝祭的な場で行うということです。神前で(祝祭的な場というのは神前でしか現前しない)酒が入り、祭りのように屠畜すればあの“いやな感じ”はありません、おそらくは。要はハイになってアドレナリンが全身にみなぎる状態を演出すればいいのです。そこでは例のタブーは解除されています。(多くの民族事例があるが、日本ではアイヌの熊祭を挙げることができる。注1)昔から「肉はハレの食べもの」と言われてきましたが、思うにそれは単に肉が希少だからというのではありません。そのような場で、ハレな気分で食べなければ肉食は何かしら罪の意識のようなものが残ってしまうのです。現代では肉を食べることがあまりに日常化してしまったので、多くの人は気にもとめませんが。(続く)

注1)アイヌの熊祭(イヨマンテ)については『日本奥地紀行』のイザベラバードの記述が興味深い。熊は無論家畜ではないが、熊祭は飼育は伴うので「動物を飼って、殺して食べる」原初の形を想像することができる。少し長いが引用したい。
「(早春にごく小さい熊を捕え)捕えた後に熊の子は、ふつう酋長か副酋長の家に入れられ、そこで女が(自分の)乳を飲ませ、子どもたちがその熊の子と一緒に遊ぶが、やがて大きくなって荒々しくなり家の中で飼えなくなると、丈夫な檻の中に入れて飼育される(…一年半ほど育てて)熊祭が行われる。これは大きなお祭りで、この時は大いに酒を飲み、奇妙な踊りがある。これには男だけが参加する、熊を興奮させるために、叫び声をあげたり大声でどなったりする。熊がだいぶん興奮してくると、酋長は熊に一本の矢を射る。その時檻の横木を上げると熊はたいそう怒り狂って外に跳び出す。この段階でアイヌ人たちはいろいろな武器をもって熊に襲いかかる。熊が力尽きて倒れると、すぐその頭を切り取り、熊を傷つけた武器は熊にささげられる。そしてその武器に対して熊が復讐するように祈願する。その後に死骸(肉)は、狂乱した騒ぎの中で人々に分配される、祝宴と大騒ぎの中に熊の頭を柱の上に安置して、それに礼拝すなわち酒を捧げる。人々はみな酩酊して祭は終わる。ある村では、その熊の養い母は、熊が人々の手にかかって殺されようとする時、金切り声をあげて泣き、殺されてから後に、殺した人々を木の枝で打つのが習慣になっているところがある。(尚、祭のやり方は山のアイヌと海岸のアイヌでかなり相違があると言っている)

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by kurashilabo | 2013-02-09 15:26 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム 2月2日

 自家屠殺などと血迷ったことを言っている訳ですが、本当は自家屠殺などやりたくないし、必要もありません。屠畜場に持っていけば一頭3千円弱で枝肉にしてくれるし、それが法にのっとった正しいやり方で楽でもあるのです。しかし毎月毎月、豚を屠畜場に送りだすたびに何かうしろめたいもの、やりきれないものがあるのです。屠畜ということ自体の負担感もありますが、屠殺を他人の手にゆだねてしまう、とりわけあの工場システムの中に投げ込んでしまうことのやりきれなさ。申し訳ないような気持ち。それは確かに楽ではあるのですが、そのことで何か大事なことを見失っているのではないか。本当は飼っている人間が引き受けるべきことを引き受けていないために、私たちの養豚はいつまでたっても中途半端なままで、地に足のついたものにならないのではないか。そんな漠然とした疑問。

 農場の養豚の特徴は品種とか餌とかいろいろありますが、一番大事な点は一貫でやっているということです。養豚で普通、一貫養豚というのは子取り(繁殖)と肥育の両方をやっていることを言います。農場も一貫養豚ですが、これだけ小規模なものはめったにありません。(経営合理性を欠いている)。しかし農場の養豚が一貫だというのはそのことだけではありません。育てた豚を自分たちで屠畜場に運び込み、枝肉にして持ち帰り、自分たち(会員)で食べるということです。しかも枝肉と同時に頭や足や内臓も持ち帰り、「豚をまるごと利用する」を原則としています。頭や内臓は持ち帰るのが大変だし、(屠畜場のラインに入って、ラインと一緒に移動し、足、頭、内臓を受け取ってゆく。これがけっこう神経を使うのです)大変な割にそれを利用してくれる人はごく少ないので大半は農場で処理することになるのですが。こんなバカなことを30年も40年もやっているのは日本広しといえどもここだけです。本当にバカなことで、いいかげんやめてもいいかとも思うけれども、バカを承知で踏み止まっている訳です。儀式のようなものです。それをしないと何か気持ちが落ち着かないというか。

 それだけ一貫して自分たちでやることにこだわりを持ちながら、どういう訳か、屠畜だけは他人まかせで、その欠落は全く不問にされてきました。むろん法律があるし、それ以上に毎月2頭を自家屠殺し解体するなど作業負担、精神的負担が大きく、とてもやれるものではありません。しかし年に1頭でいいから自ら屠殺し、死なせた沢山の豚や鶏たちと一緒に鎮魂の儀礼を為すべきではないかと思うのです。それをしてはじめて農場の養豚は一貫したものになるし、そのことで養豚の風景全体が違って見えてくるはずです。養豚がはじめて私たちの胸のうちに納まる。  屠畜はやはり重いものがあります。屠畜する日は軽トラに柵を組んで豚を積み込むのですが、積み込んだ豚の眼をまともに見ることができません。豚(バークシャー)の眼は人によく似ています。年のせいもあるかもしれませんがそこは気弱で、いつまでたっても慣れることができない。農場の養豚はごく小規模な近代前期的なもので、現在主流の近代養豚に比べれば“より問題の少ない”畜産ではあると思います。しかし規模が小さく「飼う」ことをしてしまうがゆえに、逆に屠畜の問題が現前することになるのです。近代養豚は何百、何千、何万という単位の工場システムなので「飼う」面白さもないかわりに「屠畜」の問題もありません。その経営者が屠殺で悩むことなどないはずです。そこでは豚は「産業動物」という名のモノだからです。それが彼らの原理です。屠畜で悩むこの農場は極めて特殊です。

 養豚を辞めるという選択肢もあるかとは思います。しかし、経営問題は別としても、それもちょっとさびしい。屠畜の負担感がなくなる代わりに「豚を飼う」という面白いことも失ってしまうからです。時にはヒレカツやベーコンも食べたいし。またそれを言い出すと、山羊も飼えないし、鶏も飼えなくなる。農業的に動物を飼えばそれは避けられないから。自然農のような草食系の農業もそれはそれで深い世界があると思っていますが、ボクは豚や鶏や山羊などと築くナマグサ系の農業世界に捨て難く惹かれるものがあるのです。ナマグサ系でいくならば、屠畜がはらむ倫理の問題に実践的な解を出さなければなりません。それをしなければいつまでたってもホンモノにはなりません。ま、ホンモノになったからといって何がどうなる訳でもありませんが。一般の人にとってはほとんど縁のないこと、伝統芸能のようなものです。 S
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by kurashilabo | 2013-02-02 15:27 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(2)