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ふみきコラム1124

 さて、農業の場合はどうだろうか。農業には当然経済目的があり、効率や量の問題が前面にあるので、「飼う」「育てる」の持っている贈与性は見えにくくなっている。しかし「飼う」「育てる」ことにおいて農業のそれもペットや草花と変わるところはない。かっての百姓たちの牛や馬を「飼う」は犬や猫を飼うと変わらなかったし(ただし、昔の犬や猫は現代のペットとは少し違う存在だった)、また「野良稼ぎ」をする時、彼らは単に効率や合目的性だけではなく、「育てる」というトータルな行為の中に没入していたのである。そこに出現する自他不可分の共生(棲)空間が彼らの喜びであり、誇りであり、人生そのものだった。技術や技能もその贈与性と合目的性のはざまから生まれていた。かような農的世界にあっては卵や米や野菜は生産物ではなく“恵み”として意識される。それは外からもたらされる恩寵なのである。

 農業にはかように贈与の原理が根底に組み込まれていて、それはまた、日々の営みを通してひとつの人間精神となり、子育ての仕方や身近な神々との関係にも人と人との関係にも広がっていた。(伝統的)農業社会とはそういうものだ。風土と呼ばれたりもする、かっての人と自然の一体となった風景に私たちが強くひかれるのも、単に郷愁というだけではない何か、今とは違うもっと“原型的な”人と暮らしのありようをそこに読み取っているからではなかろうか。

 農業の近代化はかような贈与性のレベルを古いもの、非合理なもの、非効率なものとして捨て去ってきたが、それは農業を単なる農産物の生産システムにするということだった。そこには農業生産はあっても人と自然の共同作品としての農業文化はない。近代農業の現場からはもはや昔話しも技能も篤農も生まれない。
有機農業は1970年代初め、すなわち農業の近代化が全面化したのに対応した形で、その批判運動として始まった。生産者が中心の活動もあったし、消費者が中心の活動もあったが、その農法上のメインテーマは農業や化学肥料を使わない、堆肥で土作りということだった。それは全く正しいし、農薬による食品汚染や化学肥料の多投による品質低下、その流亡による土や水系の汚染、生態系への影響が社会問題化していた当時の状況からいえば当然のことでもあった。しかしながら近代農業の何たるか、有機農業という実践の歴史上の意義、「論」としての射程を語るとすれば、堆肥から語り起こすというのではやはり不十分と言わねばならない。

 農業社会は人間精神から社会まですべてが作物や家畜、人が作物を育て、動物を飼うという行為をベースに構造化されている。それ故、そこをみなければ本質や全体は見えないということだ。(そこが変化すれば基本性格が変わるということでもある)有機農業は近代農業が切り捨ててしまったもの、農業を「農」業たらしめていた贈与性のレベルを回復し、同時にポスト近代につながるひとつの人間類型を提示しようというものである。だからこそ農業問題の枠を越えて、合理性と効率の極みを生きる都市生活者の魂を揺さぶったのであり、また生き方の問題として若者たちの「農へ」という潮流を生んだのである。それを子供じみた夢想と笑う事はた易いが、ことほどさように有機農業という課題は深く、また遠い。S
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by kurashilabo | 2012-11-25 16:00 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

あったかお鍋セット申し込み受付け中

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お鍋が恋しい季節となりました。無農薬のお野菜と、大切に育てた鶏のひき肉と、自家製キムチもつけたお鍋セットを期間限定でご注文承ります。お歳暮やプレゼントとしてもご利用いただけます。是非この機会にご家族やご友人にやさと農場のお野菜セットをおすすめください。 
定期購入はいつでも受付けています。定期購入の申し込みはコチラ。 

【セット内容】 (5~6人で鍋1回分位の量です)
 ・野菜(白菜・半割、大根1本、水菜、春菊、ネギ など季節のお野菜10種類程度)
 ・卵10個
 ・自家製キムチ350g
 ・鶏肉のミンチ300g
 ・日高昆布一枚

価格 4,000円(送料込) ※クール便でのお届けになります。
注文期間 2012年11月1日~12月末予定
※お鍋に必須のお野菜が無くなり次第、ご注文打ち切らせていただきます。ご了承ください。

お申し込みは以下のフォームからお願いいたします。

 申し込みフォーム

<お問い合わせ>
 yasatofarm@gmail.com
  0299-43-6769
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by kurashilabo | 2012-11-14 09:52 | お知らせ(告知) | Comments(1)

ふみきコラム1110

相手が植物の場合は、つまり野菜や米の場合はどうだろうか。そこでは「飼う」ではなく「育てる」という言い方になるが、伝統的な農業から近代農業になることで起こったことは同じである。かつては(米ではなく)田を作り、土を作ることが推奨され、いい堆肥がその基本とされた。また適期適作といって、旬の時期にその作物によく合う土地に植えることが原則だった。これらはあたりまえのことだったし、米作り野菜作りの原理原則としてゆるがぬ「農法」だった。農法というのは特別な何かではなく、あたりまえの原理原則のことだ。その農法、農のきまりごとのなかで百姓は惜しみなく愛情を注ぎ込み全身で工夫をこらし、篤農といわれた人たちは様々な技能・技術を生み出した。その原理原則と技能技術が百姓のプライドと顔を作ってきた。作物を育てるということが彼自身を育てるということでもあった。それが作物を「育てる」ということであり、限られた条件の中であれ米や野菜が心地よさそうにスクスク育つことが彼らの人生の喜びの基本だったのである。

しかし近代農業の大規模化、専作化、産地化の中ではそうはいかない。野菜や米の「産地」に典型的なように、そこでは百姓はいろいろ考えたり、工夫したりする必要はない。むしろそのような個人の「育てる」という欲望は邪魔なのであって、作られたマニュアル通りに作業をこなすことだけが求められる。そうしなければ品質の統一がとれないし、市場経済の競争に生き残れないから。「産地」とか「ブランド」はそうして作られる。むろん適期作もなければ適地でなくても作る。農薬と化学肥料と多種多様な機械や資材がそれを可能にした。今日では「育てる」はむしろ農家のジイ・バアが「半ば自給用、あわよくば直売所で小遣い稼ぎ」に作っているような畑にみられるだけで、流通の本流からはあらかた失われている。

「飼う」「育てる」が失われているというのは一般消費者からは見えにくいかもしれない。多くの人はいまだに家畜は飼われており、田舎ではお百姓が作物を育てていると思っているかもしれない。しかしそれはもう50年位前までの話。農業世界は全く変わったのである。生産者の立場の人でもその変化に自覚的な人は少ないかもしれない。大半の農業者は(残念なことだが)現在の農業にさしたる危機感をもっていない。TPPのように損得に関わることには敏感に反応しても自分たちの足元を反省的に検証する人は少ない。しかし大規模化・産地化・機械化・化学化と相まって、「飼う」「育てる」が失われたということには、その結果としての食品の品質(安全性・味・栄養価など)、環境負荷の問題、農家労働の質の問題等々にとどまらず、それを越えたもうひとつ深いレベルの問題領域があると思う。むしろそちらの方がより本質的である。それは「飼う」「育てる」がもっている贈与性の問題である。(続)S
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by kurashilabo | 2012-11-10 12:03 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム1103

現在主流の、流通の99%を担っている農業を一般に近代農業と呼んでいる。1961年の農業基本法以降の大規模専作化、産地化、機械化、化学化等々を特徴とする市場経済対応型の農業である。同様に畜産界もそれ以降、多頭羽飼育、専業化、ケージ化、アメリカ産トーモロコシを中心とした輸入飼料への全面依存、機械化・化学化(ビタミン剤、抗生物質の日常的投与)等が怒涛の如く進展した。そうした潮流への不安や批判も1970年代以降、有機農業界を中心として連綿と続いているが、大勢としては現在も変わりはない。ちなみに有機農業の側から近代農業のことを慣行農法と呼ぶことがあるが、これは誤解をまねくかもしれない。近代農業は国内的、国際的な全面的市場経済化に対応したきわめて特殊な(異常な)農業形態であって、現在有機農業と呼ばれている農業の方が本来の伝統的農業の形に近く、慣行農法と呼ばれるべきだと思う。

それはさておき、近代農業と1960年代頃までの伝統的な農業(有機農業)との本質的相違はどこにあるだろうか。トラクターを使っていれば近代農業で、鍬を使うのが伝統的農業ともむろん言えない。化学肥料や農薬を使うのが近代農業で、堆肥を使うのが伝統的農業とも必ずしも言えない。化学肥料も農薬も戦前から使われているし、通常の農業でも堆肥を投入することは少なくないからだ。問題の言い方を少し変える。農業の近代化(市場経済化)で起こった本質変化は何か。根底で何が変わったのか。結論を言ってしまうと動物を「飼う」、作物を「育てる」という行為が失われた、ないし著しく希薄化した。そういうことだとボクは思う。

この農場の畜産を例として考えてみよう。ここの畜産と、いわゆる近代畜産はつまるところどう違うのか、規模が小さい大きいというだけのことなのか、ずっと考えてきて最近なんとなくそれがわかった。(畜産を例にとるのは対象が動物なので問題点がわかりやすから)動物を飼う時、ベストの環境を彼らのために用意するのは通常難しい。畜舎であれ、餌であれ限られた条件の中であんばいすることになる。その時私たちはどうしたらこの限られた条件の中で彼らがより心地よく生活できるか考える。生物としてもっている生理欲求をどこまで満たしてやることができるかと工夫する。それが飼うということであり、豚や鶏はペットのようにはいかないが、それでも彼らが心地よく寝たり、おいしそうに餌を食べるのは見ている方も気持ちのいいものだ。あまりに当たり前すぎて日常ほとんど意識することはないが、それが飼うということだということを知っている。近代畜産になる以前の、昭和30年代頃までの畜産関係の本をみると、そのための工夫が様々に紹介されていて実に楽しい。運動場はこれくらいの広さがいいとか、日照についてとか、種オスの運動のさせ方とか、毎回草を与えなさいとか、なるほどと思うことばかりである。この農場の畜産はそのような古い教科書を参考に営まれている。

一方近代畜産の発想は全く違い、「どこまで生理欲求を抑圧してもいいか、どこまでなら卵をうみ、あるいは肉として出荷可能か、その限界値はどこか」と考える。そして「家畜は産業動物だから」と言う。動物とはいいつつその意味はモノと考えよ、ということである。これは驚くべき言明である。そこでは実際一貫してモノとして扱われている。大規模化、効率、コスト等という市場原理「だけ」で畜産を組みたてようとすればそうなる。それは至極当然のことだ。しかしそれは私たちが考える「人が動物を飼う」ということではない。だから近代畜産関係の本を開いても私たちには何の役にもたたず、何のおもしろさもない。同じ豚や鶏を相手にし、共に畜産とひとくくりにされるが、この二つは程度の違いではなく原理の違いであり、天と地ほど違う。 S
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by kurashilabo | 2012-11-04 12:00 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)