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ふみきコラム1027

近代批判という文脈で、あるいは生き方の選択として田舎暮らしや「農」を語り出した人が、現実の農村で農業を始めるといろいろと難しい問題に直面する。住む家や農地の取得(借入)、農業技術の問題等々は大変だが、それは楽しみのうちと言っていいだろう。そして大抵はどうにかなる。そういうことではなく、農業を始めれば農業は農業だということである。あまりに当たり前だが一定の収入がなければ生活できないし、それには生産物を商品として売らなければならない。有機農産物かどうかということと関係なくそれは農ではなく社会的分業としての農業だ。しかも扱うものは差別化商品であり(安全とか健康とか、反マスプロダクションとか…)多くの場合流通革命の成果(宅配システム)を利用して商品を消費者に直接届ける。それは反近代農業というより経済実体としては超近代農業であり、そういうものとして近代農業を補完している。そういうことに有機かどうか、などということは関係ない。そこに有機農業者という新しい職業分野ができているのだからその一人としてやっていくことは何ら悪いことではない。むしろベンチャー的な気持ちの高ぶりもあるかもしれない。(ただ実際問題としては市場はすでに買い手市場であるし、また個人生産者の場合は現場能力と販売能力は両立しないのが普通だ。よほどの人脈や才覚、資金力等がないと成功はおぼつかない)しかしより本質的な問題は仮に努力してベンチャーに成功したとして「それが何?」ということにならないかということだ。エコで有能な生産者が生まれることは農業界からは歓迎されるだろうが、それが本当にやりたかったこと(動機=目的)なのかどうか。

他方、「農業」になることをできるだけ避け「農」にこだわった場合はどうだろうか。こちらはベンチャーというより求道者のイメージであり、ピュアな形では自然農やパーマカルチャーがある。それはそれでおもしろそうではあるが、それで生活することはほとんど不可能で、他に収入のある人しかできないだろう。また社会的リアルからどんどん遠ざかっていく気がする。話題になっている間はいいが、仮に山奥で一人で自然農をやっていれば彼の存在はあってもなくてもいいようなものにならないだろうか。それに自分は耐えられそうにない。また自然農というと、何か特別なもののようだが、そんなものは何もない。以前『奇跡のりんご』という本を読んだが正直言ってしまうと、そこに何ひとつ新しい知見はなく、プロジェクトXばりの鼻につく語りだけで最後まで読み切れなかった。(木村氏の実践について云々しているのではなく、あくまで本の話しです。本は木村氏の著作ではなく、木村氏についての著作。)自然農やパーマカルチャーは一つの理念型であって、奥の院で誰かが人知れず深い修業をしていることは社会的な鏡(自分を映し、位置を確かめるための)として必要ではある。言ってみればそれは修道院のような性格であって、それ以上でもなければそれ以下でもない。

また純粋な自然農ではないが自然農にできるだけ近づけながら有機農業をやるという人たちも少なくない。自給にこだわり、トラクターなど使わず(必要最低限の機械で)農的暮らしを実践する。少しばかり売って生活の糧とする。彼らの場合は生産物を売ったり、機械を使ったりするのは(できたらしたくない)現実との“妥協”ということになり、それも何か変ではある。

かように有機農業で新規就農する人は自然農とベンチャービジネスとしての有機農業との間で揺れ動きながらどこかに位置取りすることになる。元来彼らの(僕らの)農業は私小説であるから好みと才覚でどこに位置をおこうといい訳だが、近代批判ないし生き方の問題としての農という動機と、農業は農業であるという日常の現実を共に抱えているからこうなる。本来、別々のテーマであるべきことが、同じ一つのテーブルの上でゴチャまぜになっているのでやっかいなのだ。

ことほどさように話が込み入ってしまうのはおそらく、農とか農業とか、自然農とか有機農業とか、そういう問題の立て方、議論のテーブル自体に問題があるからなのではなかろうか。そのテーブルからは新しい思考の筋道は見えてこない気がする。テーブル自体を換えなければならない。S
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by kurashilabo | 2012-10-27 11:57 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム1013

 「農か農業か」などという話題は全く“業界内”の話題で、一般には何のことやらさっぱりおもしろくもない話しに違いない。しかしこれは農場をやっていくうえでも、新規就農者としても避けて通ることができず、どこかで整理しておかなければならないテーマで、もう少しお付き合い願いたい。(むろん付き合わなくてもいいですが)先回、文明批評として、あるいは都市生活者の生き方の問題として「農」が呼び出されていると書いたが、そういう意味でいえば何ら目新しいことではなく、近くでいえば1960年代から70年代のヒッピームーブメントやコミューン運動がそうであったし、もっと遡れば大正時代の「新しき村」運動もそうだし、近代の超克という言い方をすれば明治以降連綿と語られてきたテーマであるだろう。
 そしてこういうことは、どれもうまくいかなかった何も残さなかったけれども、だから失敗だったという性質のものではない。あとから考えれば失敗を宿命づけられていたとはいえるが、その時ギリギリ考え、決断し、実行したのであるからすでにその時点で一つの役割を果たしていたのであり、正しかったのである。もしそれを失敗と言えば歴史は累々たる失敗と敗者のゴミ溜めでしかなく、成功者・勝者の単線で表層の歴史でしかなくなる。多くの人が様々な可能性に挑み、ひとつひとつのことを見極めているからこそ、歴史は厚みがあるのではないか。

 あ、いやそういう話ではなかった。近代批評とか近代の超克とかいう場合、それはどういうことなのであろうか。そんなことがありうるのだろうか。現代に生まれ、現代に生きているのだから私たちは現代人以外ではありえない。江戸時代を文化人類学者のごとく歩きまわることはできても江戸時代の人にはなれない。定住革命や農業革命を復習し、ネイティブアメリカンやアイヌのスピリットに学ぶことはできても、それは「学ぶ」を越えない。しかしそれは「学」にとどまるとはいえ、その学により現代を俯瞰し、それを相対化して生きることはできるだろう。それは大事な第一歩である。次に暮らしの中に近代(現代)を相対化する場所、領域を作ることはできるかもしれない。“飼うこと”“耕すこと(植物を育てる)”がその核になるとボクは思う。飼う、育てるは贈与性をその本質としており(以前どこかで言ったように)、自然との関係、動物や植物との関係においてたとえ小さくとも贈与的領域を作りだせばそれは増殖して人と人との関係にまで拡がっていくはずだ。
 また、農業や暮らしの中に儀礼や年中行事を取り込むことも考えていいのではないか。それらは中味のないマネッコと嘲うことはできるが、儀礼や年中行事は「型」であり、型は昔の人たちの身体化された智恵だ。型を整えればその型のもっている感情や意味が次第に染み出してくるのではなかろうか。神々はいるのではなく、いるとして振る舞ううちに、つまりは行為的に出現するものだが、それと同じである。そんなことを積み重ねていけば、近代(現代)人でありながら前かつ超近代をも同時に生きることができるのかもしれない。ほんの少しは。

 「新しき村」もヒッピームーブメントも、まるごと近代を飛び出ようとしたものだが、そのような“革命”はロマンだがやはり無理というものだ。現代の農的志向に何か新しいものがあるとすればそのあたりの“あたりまえの智恵”を身につけたということか。そうであったらいいのだが。ちなみに「新しき村」は老化したかもしれないが現在も続いているし、ヒッピームーブメントの色を強くもっていたたまごの会初期農場もかように変形しつつも続いている。共に初期投資のパワ―とレベルの高さゆえであり、少々の驚きを禁じえない。創設者たちに敬意を表すべきであろう。 S
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by kurashilabo | 2012-10-14 11:52 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム1006

ボク自身もその一人であるところの、いわゆる新規就農者といわれている人たちはいろいろと難しい問題を抱えている。あるいは新規就農者の立ち位置には込み入ったものがあるといったらいいか。そこが話題ないし議論になることがほとんどないのは不思議である。基本問題だと思うのだが。彼らの多くが直面している経済的困窮はここでは問題にしない。「ボロは着てても心は錦」などというのはウソ八百で、一定のゆとりがなければ豊かな農的暮らしなどありえず、彼らの7~8割はそのレベルに達していないのではないかと思う。貧困問題は切実だが、切実すぎてここでは話題にできない。また、先回ちょっとふれた彼らの抱えているある種の空虚感のようなものについても(みな関係しているのだが)深入りしない。

まずひとつは彼らが農業に関心をもった道筋、動機は農業の問題ではないということである。「都市」の先端で農業が話題になる時、誰も農業問題を語っているわけではない。また時折目にする「農業見直し論」「これからは農業の時代だ」みたいな論調もよく読めばそれが農業の問題ではなく、現代文明見直し論であることがわかる。現代社会の行き詰まり(息詰まり)、ないし文明の見直し気分が農業用語を使って語られている、と言ってもいい。農業問題というのは後継者問題であるとか、米価とか、ウルグアイラウンドとか、TPPとかそういうことだが、おそらくそういうことに関心がある訳ではない。文明批評として「農」が呼び出されているのであり、都市生活者の生き方の問題として「農」が語られているということであろう。だからナンセンスと言っているのではなく、もしそうであるならば思想としての農、生き方の選択としての農、現代を越えていくための農として、農業の新しい語り口を作らねばならない。それは現実の農業問題とは全く別のテーマであり、混線させるのはよくない。

いまひとつは新規就農者の、現実の農業問題との接続の仕方である。農的気分がおしゃべりの一線を越えて、現実の就農となると問題は更にややこしくなる。日常やることは一見農業なので、つい農業者になったような気分になる。いやりっぱな農業者である。しかし彼らがそこで農業をやれるのには幾つかの前提がある。まず、遊休農地がなければ借りることも、買うこともできない。農地がなければ農業はできない。古民家は田舎暮らしの人に人気だが、離農したり家が絶えたりしなければそういうものは発生しない。またムラという共同体が弱体化しなければ排他性が強くヨソモノは受け入れられない。更に言えば彼らはその生産物を「安全」「顔の見える」「おいしい」等々の言葉で差別化して売るわけだが、それには現実の流通はその逆でなければならない(現実には普通の市場流通もその昔よりかなり改善されている)。皮肉なことだが、ムラや農業が弱体化した、農業がダメになったから新規就農者がムラに存在して農業の如きことをやることができるようになったわけである。そういう逆転した形で農業問題と接続している。そういう形でしか新規就農者は存在しえない。そして就農者の存在自体が現実の農業の深刻さを語っていることを自覚している人は少ない。
今後何かを語り、何をするにせよ、この2点を踏まえないと、新規就農者と言われる一群の人々は何者になることもできず、歴史の中に忘れられていくことになるのではないか。それも悪いことではないかもしれないが。更に言ってしまうと、この新規就農者という言葉を有機農業という言葉に置き換えてもたぶん事情は同じなのである。 S
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by kurashilabo | 2012-10-07 11:50 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

収穫祭2012 開催のお知らせ

今年も収穫祭の時期がやってきました。
大地と太陽がもたらす恵みと、
鶏や豚さんから頂いているいのちに感謝しつつ
楽しい一日を過ごせたらいいなぁと思っています。

日 時 11月4日(日) 11時スタート 16時半まで
参加費 2000円(飲食代込み)、お酒のまない人は1500円
     小学生以下は無料です。
参加対象 会員 と その友人

<こんなことやります>
  もちつき、さばきたて鶏の焼き鳥、燻製卵 などなど
  手作りビール、ミルクたっぷりチャイ
体験 里芋ほり 塩麹づくり(※今年の新米で米麹つくります)
語る 40年近く続いてきた農場の新旧会員で、今まさに農的に生きるということの意味について語りあう座談会を企画中!

★お楽しみ企画
本の交換会やります。交換してもいい、おすすめの本を1冊持参してください。
絵本やマンガでもOK!

お申込みは以下のフォームから登録お願いします!
https://docs.google.com/spreadsheet/viewform?formkey=dDJDSFRyWmlVWEJfOVFuemp0YW4tbnc6MQ

★申込期限 10月28日(日)21時!
直前になるまで未定の場合もいったんお申込みください。
来れなくなったらご連絡ください。
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by kurashilabo | 2012-10-05 21:41 | お知らせ(告知) | Comments(0)