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ふみきコラム0225

農場入口の横に7畝(約200坪)ほどの田があり、今度その田を池に改造することにした。ごく細い谷水と地水(山際から滲みだ出してくる水)を利用した強湿田で、泥が深く、一部しか機械が入らないのでもてあましていたのである。農場下にも1反(約300坪)ほどの超細長の田があり、そこも一緒に“池化”して魚を飼う予定だ。そこは圃場整備が済んでいる田にもかかわらず、道路側からの地水で湿田化し、しばしば機械(トラクター)が泥にはまり、ほとほと難儀してきた。もっと若く、もっと力強ければ「昔ながらの米作り」でやり切ってしまおうと燃えたかもしれないが、もう若くはないし。もともと力強くもないし。どこぞやの地蔵さんが夜中にやってきて田植えを済ましてくれた、というようなこともなさそうだし。

そんな田を眺めながらある日ふと、「溜池(ためいけ)にしてしまおう」と思いついたのである。「溜池」と言って、どれだけの人がすぐその風景を思い浮かべることができるだろうか。溜池とは古来よりの(古墳時代の頃)水利施設で、小さな谷津田(細い谷沿いに拓かれた田)を灌漑するためのものである。谷津の奥を堤で仕切り(高い堤を築く)細い谷水を満々と蓄えておき、田植えから始まる数カ月間、田に水が切れないようにするのである。現在は田の圃場整備が進み、水利用もポンプ小屋でボタン一つで管理できるようになったところが多く、日本の至るところにあった小さな溜池の多くは、見捨てられたり埋まったりしてしまった。

ごく私的な話になって恐縮だが、溜池がすごく懐かしいのである。子どもだった頃、小学生か中学生だったが、兄弟で連れだってひと山越えたところにある大きな溜池に行き(子どもにはとても大きかった)魚釣りばかりしていた。そこは家とも学校とも違う別天地だった。池のまわりには木々がおい繁り、岸辺には葦が生え、沢山のハス(蓮根)が葉をひろげ、ウシガエルが山々に響く独特の低音を響かせていた。ハスの間に釣り糸を垂らすとフナなどがよく釣れたのである。それを素焼きにしてから砂糖と醤油で煮るとひなびた味だが美味しかった(料理はもっぱら母だったが)。そこはボクにとって一番なつかしい場所であり、今になって考えてみると、現在につながる身体と心の核はそこで身につけた気がする。学校の記憶などもうほとんど消えかかっておぼろげなのに、山や溜池や川の記憶は未だに鮮明で、どこにどんな木があり、谷川のどこに深みがあって、そこにどんな魚や生き物がひそんでいるのか、細部まで思い出すことができる。そんなことはむろん誰にもあるありきたりの郷愁だが、山と水と谷津という風景には人間の本質にかかわる何かがある気がする。あれは確かに魚釣りが目的ではあったのだが、実はあの、静かで、緑の深い水に引き寄せられていたのではなかろうか。

そんな超個人的な想いでコトをはじめていいのかと言われそうだが、それでいいのである。溜池などという水利施設が必要なのかと問われれば、むろん全然必要ない。それでもいいのである。水と魚とハスと水鳥と…、そんな風景の方が7畝からとれる3俵かそこらの米よりボクにはずっと大事(3俵で180kg、4万5千円位)。そしてボクにとって本当にそうなら、おそらく他の人にとってもそうなのだ。農場ではこれを「浄土化計画」と呼んで楽しんでいる。S
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by kurashilabo | 2012-02-25 16:57 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

「やさと農場手作りラーメン部」参加者募集

「ラーメンの正しい位置」

寒い季節、ちょっと小腹がすいた時。
コンロに火をかけ、棚からそれを取り出し、
フタを開け、沸いたお湯をカップに注ぐ。

3分は待たない。麺がのびるから。
それに、フタの隙間から漏れ出す匂いが
早く食べよーよぉ、と誘いかけてくる。

2分。我慢の限界が訪れ、勢い勇んでフタをあける。
モクモクと湯気が立ち込め、同時に部屋中が
幸せな匂いでいっぱいになる。

麺を持ち上げ、息を吹きかけて少し冷まし、
一旦スープに戻したと同時に一気にすすり上げる。
やばい。どうしようもなく旨い。
一息ついて、熱々のスープを少しだけすする。
これまた途方もなく旨い。
これがラーメン。これが幸せというものだ。

素材厳選?チキンエキス?ポークエキス?化学調味料?
そんなオカタイ事はドーデモイイのだ。
安くて早くて旨い。これがカップラーメンの正しい位置だ。

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寒い季節、ラーメンが恋しくなる。
年に何回も食べれるものじゃない。一日かかる大仕事だから。
鶏舎に行って羽ツヤの良い鶏を見繕う。
すまんが、お前にはラーメンになってもらう。
申し訳なさと期待が複雑に絡み合う。

鶏を捌き、畑で野菜を収穫し、スープを作る。
その間に豚肉でチャーシューも作る。
じっくり時間をかける。時間は惜しまない。
今日はそのために空けてあるのだ。

大鍋から立ち込める鶏ガラスープの湯気が部屋中を温める。
外から戻ってきたアイツのメガネが白くなって笑いあう。
いつしかみんながラーメンを楽しみに待っている。

みんなだけじゃない。鶏も豚も野菜も一つの丼の中で
混ざりあう事を楽しみに待っているかもしれない。
キレイごとに聞こえるかもしれないが、彼らの面倒を見てきた者として
彼らが不幸な生き方ではなかった事を知っている。
そして、みんながその事に感謝と喜びの念を持って
いただくだろう事を知っている。

やがて、一杯のラーメンが完成する。
湯気と歓声と、ラーメンの匂いが立ち込める。
みんなで一から作ったラーメン。旨くない訳がない。
早く、早く食べたい。
席に着き、みんなが揃ってラーメンを食べ始める。
こんなラーメンは今までに・・・。

一杯のラーメンに、世界のありようが、暮らしの思想が、
動物や植物たちの命が、みんなの喜びが、ストーリーが、
技が、詰まっている。これがラーメンの正しい位置だと、私は思う。

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企画名:やさと農場ラーメン部
日 程:4月7日(土)~8日(日)
参加費:15,000円(宿泊、食事4回、実習費込み)※会員は2000円引き
定 員:10名 ※参加者が多数の場合抽選いたします。
〆 切:3月6日(火)   
抽選日:3月7日(水) ※結果はメールでお知らせします。
集 合:11時現地集合(10:05石岡発のバスがあります)
    翌日の終了予定時刻は14:00

【実習内容】
 鶏の解体、チャーシュー仕込み、野菜の収穫
 鶏ガラスープづくり など

【持ち物】
 エプロン、手ぬぐい、ラーメン丼ぶり

【申込方法】
 kurashilabo@gmail.com にメールでお名前と緊急連絡先を添えて
 お申し込みください。件名は「ラーメン部参加申込」と記入してください。

 参加申し込みが10名満たなかった場合は募集期間を延長いたします。 

主 催:暮らしの実験室やさと農場
担 当:茨木、小松

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by kurashilabo | 2012-02-24 15:35 | お知らせ(告知) | Comments(0)

3/24-25「手作りソーセージの会」

農場をこよなく愛する会員有志による企画です^^
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来る3月24日、25日に「四季を楽しむ会」と「やさと農場」のコラボ企画「手作りソーセージの会」を実施いたします!!これまで旬の食材を楽しむイベントを開催してきましたが、今回は自分たちで作って食べる体験ができます。農場で大切に育てられた黒豚を使い、ハーブや香辛料も入れて自分好みのソーセージを作りましょう♪

日時:3月24日(土)13:00~/25日(日)9:00~
場所:暮らしの実験室やさと農場(茨城県石岡市)

参加費:
 1泊2日 8,000円(宿泊費・食事代・材料費込)+別途交通費
 日帰り 5,000円(食事代・材料費込)+別途交通費

定員:18名
*キャンセル料については、二日前からキャンセル料がかかります。
木曜日は1500円、金曜以降当日は2500円。
日帰りの人は1500円(木曜以降当日まで)。

内容:
24日(土)
13:00 受付
13:30 ソーセージ作り(肉をミンチ状に仕込みます。一部ソーセージに加工)、夕食用の餃子作り(餃子作りと並行して、同時に、夕食の準備もやります)
18:00 夕食 餃子パーティー☆
19:30 近くの温泉または銭湯へ
21:00 交流会 作ったソーセージとお酒で楽しいひとときを!

25日(日)
8:00 朝食(朝から朝食を食べるために、7時起きで、朝食隊募集中です)
9:00 日帰り参加者受付
9:30 ソーセージ作り(前日に仕込んだ肉でソーセージ作り 腸詰め、スモークなど)
12:30 作ったソーセージと農場の野菜を使ったランチ(お昼担当も募集中)
15:00頃 解散

☆☆作ったソーセージはお土産に持ち帰れます☆☆

持ち物:エプロン、ソーセージ持ち帰り用の容器、個人的にソーセージに入れたいもの(基本的な調味料はこちらで用意します)

参加締切:3月17日(土) ※定員になり次第締め切ります

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*希望者にはお持ち帰り野菜セットあります。※事前申込必要※
 1500円 卵(6個)と季節の野菜5,6種類
※ひき肉(300g450円)や卵(6個240円)は単品で購入できます。
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☆暮らしの実験室やさと農場とは
茨城県石岡市で有機農業(有畜複合農業)を営んでいる農場。豚と鶏を飼い、その肥料を使い野菜や米を育てている。農場スタッフと研修生が農作物を作り育て、共同生活しながら《農》的暮らしを実践している共同農場。
http://homepage.mac.com/kurashilabo/index.html

◎参加希望の方は、こちら申込みフォームより、申し込みをよろしくお願いします。
https://docs.google.com/spreadsheet/viewform?formkey=dFlIQTVrNjJaYmx0ZTBjaGJuV2l0dUE6MQ

もし、開かないなど不具合ありましたら、
enjoyfourseasons@gmail.comまで。
申込時に必要な項目として、
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名前
連絡先
両日参加 or 25日参加
遅刻/早退の有無
自家用車で来る人
朝食・お昼の希望レシピ
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を明記してください。

皆さんの参加をふるって、お待ちしています!

企画者;ぐっさん、つっちょん
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by kurashilabo | 2012-02-23 23:15 | お知らせ(告知) | Comments(0)

「縄文ハウス」イベント!!終回

まだまだ寒い日が続いて、春が待ち遠しい今日この頃ですね☆
昨年春から約一年をかけて、沢山の方に協力いただきながら作った縄文ハウス建築イベントシリーズ、ついに最終回のご案内です☆
お手伝いして下さった皆さんは勿論、応援して下さった皆さん、これまでイベント参加はした事ないけど面白そうだと思った方も!みんなで楽しんじゃいましょう!だってお祭りだもの!!

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      ≪ 「縄文ハウス」イベント!!≫

           終回~うたげ~

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◆■ 第8回イベント[3/31-4/1] 募集要項 ■◆
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●コンテンツ
◎たぎるような宴を作ろう!
・縄文ハウスの屋根に種まき(種まきの儀式)
など

宴の飯
・鶏の丸焼き
・ドングリパン(木の枝に巻いて焚き火で焼く方法で作ります。)
・どぶろく
・かっぽ酒(竹に入れて焚き火にあてたお酒)
など

その他コンテンツ、料理募集&検討中

●日時:2012年3月31日(土)~4月1日(日)

31日昼12:30に農場集合、1日夕方に解散予定
 (上野9:49発、石岡11:28着の電車、11:35石岡駅発のバスに乗る)
※農場がはじめての方は朝上野駅に集合し、その後、みんなで農場に向かいます。
 詳細は参加フォーム入力後に、こちらからご案内いたします。
※一泊も日帰り参加もOKですが、全日程参加をお勧めします♪

●開催場所:暮らしの実験室やさと農場 (常磐線石岡駅~バス20分程)
〒315-0116茨城県石岡市柿岡1297-1 Tel: 0299-43-6769
アクセス: http://yasatofarm.exblog.jp/i7/

●募集人員: 先着18名

●参加費:7000円
<内訳>
・イベント参加費2000円
・宿泊、食費別途5000円(宿泊:3000円×1泊、食費:500円×4回)
・その他、希望者は温泉代(500円)、お酒代(好きなだけ)別途
※学生と子供は宿泊費が半額になります!(-1500円)
※日帰り参加者は参加費が3000円になります
 (農場利用料。イベント参加費、食費1回分込み)
※今回は縄文ハウスに泊まることも出来ます!(寝袋持参&宿泊費500円引き、先着4名)

●申し込み:
こちらから申し込んでください。
http://my.formman.com/form/pc/xEgvFNwDHuYiwhJi/

携帯からだと送信できないことがあるので、できるだけパソコンから
送信してください。

●募集締め切り3月24日(日)
・募集定員になりましたら、早めに締め切りさせて頂きます
・キャンセルについて
 3月29日(木)までキャンセル料は発生しません。
 29日以降のキャンセル料は一律2000円です。(日帰りの人は1000円)

●持ち物
・着替え(基本的に外なので動きやすい服で!防寒対策は忘れずに)
・お風呂セット(農場のお風呂を使用される方は備え付けの環境に優しい洗剤を利用していただく事をお願いします
・楽器(持っていたら)
・常備薬等

●縄文ハウスのブログ<http://mokutengu.seesaa.net/>
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by kurashilabo | 2012-02-23 14:51 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム0218

ボクは農場でシロという名の平凡な中型犬を飼っている。

犬の眼をみていると妙に人間くさく感じることがある。いや人間と全く同じ眼だなぁと思う。話しかけるとこちらの言っていること、正しくはこちらが伝えようとしていることを必死で読み取ろうとしているのがわかる。強い「眼力(めぢから)」がある。また、つまらない時はいかにもつならなそうな上目使いをするし、楽しい時は本当に楽しそうな眼をしている。肉片を手に入れた時の(口でくわえた時)猜疑心いっぱいの眼もおもしろい。「眼は口ほどに物を言い」とは犬のためにあるようなものだ。実にいろいろな眼つきをする。表情つまり心の、眼への現れ方は人間とほんとうによく似ている。その心を知性と呼ぶなら犬にははっきりとした知性がある。霊性と呼ぶなら霊性がある。むろん猫にも豚にも山羊にもそれはあるが犬ほどクリアではなく、また人間に似ていない。ニワトリともなるともうそれを感じることはあまりできない。トリの眼は爬虫類や魚類に近い。「眼は心の窓」だとすれば鶏には心といえるほどのものはないのかもしれない。

犬はオオカミを家畜化したものというのがほぼ定説だが、実はオオカミを生まれた時から飼ったとしても、犬ほどにはコミュニケーションがうまくいかないのだという。人+犬という形にはならない。カギとカギ穴のようにはいかない。それはつまり、犬の人とのコミュニケーション能力は人と暮らすなかで犬が獲得してきたものだということを意味しているのではないか。犬は人の心を読みとろうとし、その場の空気を理解し、自分の意志を伝え、人と一緒に楽しむことができる。それはもはや人ではないか?大人ではないかもしれないが小学生くらいではある。こうしたことをオオカミの性質、たとえば群れの順位制などで解釈することはたぶんむずかしい。犬がヒト化してきたのである。(人のまねっこ)。人の方からの働きかけがあり、犬の方もそれに応える形で。

猫も豚も鶏も家畜化のプロセスで(人と暮らす中で)身体的・生理的な形を変えてきたが、「ヒト化」する方向には進まなかった。実に犬だけがその能力をもち、それに成功したのである。愛犬家はしばしば「犬は特別」「犬は神様からの贈り物」などという言葉で“愛の告白”をする。おそらくそのことを言っているのであろう。猿も賢いというが(飼ったことがないので想像だが)猿の賢さは猿自身の賢さであるのに対して、犬の賢さはヒトとの関係における賢さ、コミュニケーションレベルの高さなのである。犬が人と違うのはただひとつ、概念、つまり言葉をもっていないということだけではないかと思う。おそらく脳にその機能がないのである。

しかしその「ヒトイヌ?!」は人と一緒の時だけのもので、他の犬族と群れを作る時、とりわけ発情している時は野生の犬が復活する。人と居る時の顔と犬の世界にいる時の顔は違うのである。わが愛犬シロ君はロープから放してやるとしばらくは農場のまわりで遊んだり、人とたわむれているが、しばらくすると呼んでも戻ってこなくなる。そして不思議そうな顔をしてこちらを振り返り、そしておもむろに立ち去っていく。それが「オレは行くからな」とでも言っているようなのである。その時、彼の中でモードが切り替わるのであろう。出て行ったら最後、一日で戻る場合もあるが、一週間の場合もあり、戻ってこないかもしれない。そうなったらもう「ボクのシロ君」ではないのである。 S
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by kurashilabo | 2012-02-18 16:52 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム0211

ボクは農場でシロという名の平凡な中型犬を飼っている。

 シロの他にババという名の平凡な女黒猫も飼っている。ババは去勢した。これまでに何匹も猫を飼ったが、一度も子を産ませないまま去勢したのはババだけだ。そのことでババには後ろめたい気持ちを持ち続けている。もう旧聞も旧聞、数年前のことだが、作家の坂東真砂子氏が(当時タヒチ在住)「猫が子を産むたびに裏の崖に投げ捨てて殺している」と新聞のコラムで“告白”して、いわゆる愛猫家たちから猛烈なバッシングを受けたことがあった。
彼女の論旨は、去勢は生と性そのものを傷つけることだから、それよりもむしろ子猫殺しを選ぶ、というものだったと記憶している。(コラム自体は未読。その後の週刊誌等からの情報)ネットを中心にした、そのただならぬバッシングに魔女狩り的な恐怖を感じたものだが、多くの人の「子猫殺しは人非人の行為だが、去勢は人道的とまで言わなくともよりまし」との意見にも強い違和感があった。むろんどちらも避けられればそれに越したことはないが、動物を飼えば必ずその繁殖を人間がコントロールしなければならなくなる。その時どういう方法を選ぶのか、これは簡単な問題ではない。

私の意見は坂東氏に近いもので、動物たちにとって生と生殖は一体のもので(生殖のためにその生はあるという位に)、その機能を外科的に破壊するというのはどう言い繕おうと虐待という他はない。それを「よりベターで人道的」などとマナーの如く言ってごまかしてはならない。一方の子猫殺しは殺してしまうのだから虐待より罪深いという言い方もできるがちょっと違うのだ。殺すのは生まれたばかりの子猫で成猫ではない。生まれたばかりの子が他の動物に食われたり、栄養不足になったりして次々と死ぬのは自然界ではごく普通のことだ。そこに加えられる自然淘汰圧によって生態系全体のバランスがとれていると言ってもいい。だから子猫を殺して全体の数を増やさないというのは、その自然淘汰圧を人為的に加えているともいえる。また生まれたばかりの子猫を死なすのが猫殺しといえるのかどうか。
子どもの頃、子猫が生まれると「眼があかないうちは生まれてないと同じだから早く捨ててこい」とよく母からしかられたものだ。子供心にその身勝手な理屈に憤慨したものだが、今になって考えるとそこには年寄りの智恵も確かにあったのだ。「眼があいて、そこに世界が映った時、はじめてこの世界に出現したことになるのだ」というのはへ理屈ではない。受精卵も胎児も子猫も成猫も同じ一つの生命と考えるのは生物学である。しかし生死の問題は生物学ではない。ババには避妊手術をしたが、それはもう自分が気が弱くなって、生まれた子猫を捨てる苦痛を背負いこみたくなかったからだ。全く自分の都合なのである。坂東氏へのバッシングをみていて、犬や猫がペットになった時代というのも恐ろしい一面があるなぁと思ったのである。これが犬猫がまだ普通の犬や猫であった昭和なら、また違ったものになったのではないか。そもそも昭和も私が子どもの頃は避妊手術など話題にもならず、またそんな大金を犬猫にかけるという余裕もなく、生まれた子猫を捨てて(川に流して)死なすのはごく普通だった。社会的な避妊のススメなどなくとも犬も猫も一定の数だったのだから社会全体で自然淘汰圧を“暗黙知”として加えていたのである。「テキトーに間引いておこうよ」ということで。平成のペット事情の中ではそういう“常識”は通用しない。あの軟らかい感触と細くも強い鳴き声を断ち切るように子猫を川に流していた時代の方が、人も動物も生身で生きていた気もする。愛猫家の人たちも避妊手術などという人手まかせで、自分の手を汚さない、姑息な手段をとらずに生殖をコントロールしてみたらいいのだ。「飼う」ということの中にはそういうことも含まれるのではないか。S
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by kurashilabo | 2012-02-12 16:49 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム0204

ボクは農場でシロという名の平凡な中型犬を飼っている。

 朝日新聞連載の漫画「ののちゃん」のおうちの犬は犬小屋にいて、いつもつながれている。しかしあれは昭和の風景で、平成の現代の都市部ではすでに8割が室内飼いだそうだ。(マンガの「ののちゃん」は全体の基本トーンがそもそも昭和だ。)昔は「お座敷犬」などと嘲笑気味に言ったものだが、いまやそれがスタンダードになってしまった。外の犬小屋にいるか、居間にいるかで犬と人間の関係は劇的に変わる。室内犬はいかにもペット、あるいはコンパニオンという言い方がよく似合う。そういう現代からみると昭和の「犬小屋につなぎ飼い」という風習がいかにも遅れたもの、奇妙な常識だったように思えてくるから不思議だ。どうしてあんな飼い方が常識のように通用していたのだろう。虐待とまでは言わなくともあれでは犬もストレスフルだし、人の方も全然楽しくない。外国の事情はよく知らないが犬小屋のある風景は日本独特のような気もする。おそらく一方に明治以来の野犬撲滅と放し飼い禁止という行政的・社会的圧力があり、他方、たたみ中心(お座敷)の家の構造があってあんな形になったのであろう。いずれにせよ放しておく訳にもいかず、かといって座敷にあげる訳にもいかずという中途半端でネガティブな理由だから犬にとっても人にとっても心地いいはずがないのだ。犬がいるところではどこでも犬に噛まれるという事故は起こるが、つなぎ飼いされている犬は特に危険だと思っている。放されている犬はむやみに人に噛みつくということはまずない。(但し噛み癖のついた犬やある種の犬種やそのために訓練された犬は別として)昔、ボクの子どもが小学生だった頃、友だちの家の犬にひどく噛まれ病院に駆け込んだことがあった。その時の犬も終日つながれていて、散歩にも出してもらえない状態だった。

 さて、日本近代百数十年の間に犬の飼い方も大きく変わってきた。江戸時代以来の地域犬という在り方があった(これを飼い方にいれるかどうかはともかく)。この地域犬はいつからか野良犬と呼ばれるようになって、昭和30年代頃までは街や村にウロついていたものだ。一方、明治の上流階級で始まった欧米直輸入の「従者としての犬、主人と共にある犬」は権威と権力の象徴として、またファッションとしてその後も上流では続いている(そういう人たちはもともと犬小屋などでは飼わない)。大正・昭和以降、次第に国民の多数になっていく中産階級にあって家庭犬が普及する。これは戦後、経済の発展とともに国民的習慣として定着した。犬小屋のある風景である。その延長線上に平成のペットとしての犬、室内飼いされ服を着、美容院にも行くという犬たちが出現する。今では茨城の片田舎の当地(石岡市柿岡)にも犬の美容院があって、つくづく時代は変わったと驚く。犬族もいよいよ近代の恩恵に浴するようになったのである。

 どの時代が犬にとって幸せだったのか、どれが正しい飼い方なのかと問いたいところだがそれは愚問だろう。犬は人との関係において犬なのであり、犬の歴史は犬と人の関係の歴史であって、その時の犬のありようはそのままその時代の人と社会のありようなのである。犬は人と社会に合わせて様々な顔をもって私たちと共に近代を生きてきたのであり、それは犬という家畜の懐の深さともいえよう。それは猫がいつの時代でも同じ「吾輩は猫」だったのと比べるとよくわかる。犬は人と社会を映す鏡なのである。S
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by kurashilabo | 2012-02-05 16:47 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)