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ふみきコラム0128

ボクは農場でシロという名の平凡な犬を飼っている。

「飼う」もディープになると他の人は近寄り難いものとなる。ボク自身はいろいろな動物を飼ったり死なせたりしてきたし、「飼う」「育てる」を仕事としているので、あまりに日常的すぎてむしろディープになることは少ない。かの人たちは純粋だったのだろうか。元オウム信徒の平田某氏と彼をかくまった斉藤某女史の新聞記事を見て少々驚きがあった。(1月18日朝日新聞)平田氏は出頭する時期を「飼っていたウサギをみとってから」にしたといい、斉藤女史はその骨をもって出頭したというのである。(火葬したということ?)彼らにとってウサギは何か特別な意味をもっていたのかどうか、それはわからないし、そもそも記事がそのまま事実なのか、それも確かめようがない。普通にペットだったとして言うのだが、これはかなりディープな「飼う」といえるのではないか。

ボクの理解では身近に神々とつながる回路をもっている人はいわゆるペットを必要としない。昔の人がペットを飼わなかったのは、むろん経済的、社会的余裕が無かったということもあろうが、むしろ必要としなかったのではなかろうか。仏壇の中の先祖や親族と共に生き、路傍の石仏と語り合うことができる人々にペットはいらないのである。また昔は農業や暮らしの中に沢山の「飼う」や「育てる」がリアルにあったので、それで十分だったということもあろう。(農業近代化の中でそれはほとんど失われた。)かの二人もオウム信徒だった時はきっとウサギは必要なかったのだ。オウムから抜けて、抜けたあとの空洞にウサギが入り込んだということなのだろう。シヴァ神の後釜にウサギが居座ったとしても何ら不思議ではない。そこまでいけばウサギも十分その役割を果たしたといえよう。

さて、明治の文明開化と共に上流階級に受け入れられた「自分の犬を飼う」という習慣は、その後大正から昭和にかけて日本に「比較的裕福で近代的平民意識を持った」中産階級が生まれると彼らによって一般化していった。そしてそれが誰も不思議に思わない国民的習慣になるのは戦後、それも経済の行動成長によって国民の多数が中産階級化してからのことである。そしてその時犬はペットとして再発見される。むろんそれ以前にも犬はいたが、今日言うところのペットとは少し違っていたと思う。ペットという言葉自体70年代以降のものではなかろうか。ペット的な犬への接し方は子どものものであって、大人としては何か恥ずかしいものだった。それがいつの間にか大人もペットとしての犬を飼うようになった。そこにはむろんぺペット産業の隆盛とその戦略があるにせよ、根本的には人々の意識が変わった。そこに新しい社会的ニーズが発生したということであろう。

内山節は1965年を最後に日本人はキツネにだまされなくなったとし、そこに「人間と自然にかかわる」革命があったのだと言っている。ボクは自分史の印象を踏まえてそれに基本的に同意しているのだが、皮肉な言い方をすれば、キツネにだまされるような迷妄の精神から覚醒はしたものの、また新しいキツネが必要になったともいえよう。ペットをディープに愛する人は畏れた方がよい。ゆめゆめたかがペットなどと考えてはいけない。それは一人カルトかもしれないのである。 S


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藤原書店から出ている季刊誌「環(かん)」冬季号に、「ふみきコラム」の家畜についての文章を(一部加筆修正して)掲載していただきました。是非ご一読ください。(但し、雑誌についてはひどく高い)会員の井野博満さんの紹介です。
「環 Vol.48
特集: エネルギー・放射能――東日本大震災 III」

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by kurashilabo | 2012-01-28 10:19 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム0120

(前項の続き) いまひとつ、人が言葉(意味)の世界に生きているということがある。ことばの世界は豊饒でおもしろいかもしれないが、(時に悲惨だが)一旦その世界の住人になると、そこから外へでることができない。言葉の世界は自然界にありながらそこに空中浮遊している。人間はその言葉を駆使して現在の高度な文化や都市を築いてきたが、それは壮大な言語空間といえるかもしれない。しかし当然ながらそこには自然はなく、高度化すればするだけ自然から遠ざかる。そしてまた至極当然のこととして自分の体という自然、死という自然とのあつれきが高まり、自然への欲求が亢じていく。

一方の動物たちは言葉をもたない。自然そのものを生きている。家畜化された動物たちも身体は奇形化しているが生き方はどこにいようと自然そのものだ。それゆえ彼らにえさをやる時そこに言葉は介在しない。一瞬かもしれないが、言葉の世界から降り、自分の中の自然と外の自然がつながる。動物は言葉解さないだけでなく、私たちと同類の「動く自然」であるからそれはよりリアルに感じられる。(アウトドアの自然は往々にして対象としての自然になりがち。)そして自然は私たちの深層の心性においては無垢なるもの、聖なるものとして意識されているからその時、自分もまた無垢な子どもに戻っているのである。それが自分自身を癒し、救済するのであろう。

こうした“解読”がどれだけ的を射ているかはわからないが、えさをやり、彼らがおいしそうに食べているのを見ているのはなぜかおもしろく心地よいのである。そしてえさをやるおもしろさは「飼う」ことのおもしろさと同義だとすぐわかるだろう。また草花を育てるのがおもしろいのも原理は全く同じだ。私たちは「飼う」「育てる」というやり方で言葉の世界(文化あるいは文明)から降り、自然をわがものとし、子どもになって無垢なもの聖なるものとつながるのである。それは人が神々とつながるやり方と同じだ。神前でお賽銭を投げるのも、ハトに餌を投げるのも、おそらくそこに本質的な違いはない。人は高度な文明を築きながらその一方で、かようなやり方で精神の健全さを保ってきたのだといえるかもしれない。

むろん「飼う」も「育てる」も日常化し、ルーティンワーク化していけば、その奇妙な行為の意味や不思議は次第にわからなくなる。とりわけ農業が発生してからは経済目的が常に結合していたので、私たちはつい「飼う」「育てる」はいつも何か目的があってするものだと考えがちである。しかしそれは人間にとってそれ自体が目的の行為だ。

ボクは子どもの頃、魚を飼ったり、鳥を飼ったり、虫を飼ったりしたが、むろんそこに何か目的があった訳ではない。ただ飼いたかったのである。そして今、豚を飼ったり、野菜を育てたりしているが、むろんそれは経済目的があってのことだが、飼ったり育てたりしている時はそれを忘れている。「豚を飼う」と「屠畜して肉を得る」というのは2つの性質を異にする行為なのである。そしてまた逆に、ペットはそこから経済が抜け、「飼うこと」自体が目的となった動物たちである。彼らにおいてこそ「飼うこと」が人間にとってもっている根源的意味が露出しているのである。S
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by kurashilabo | 2012-01-20 17:45 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

味噌仕込みの会

※定員に達したので募集を締め切ります。
  ありがとうございました。


2011年にみんなで育てたお米と大豆を使って、100%オーガニックの自給味噌を作っちゃいます。
どなたでも参加できますので稲作や大豆作りのイベントに参加したいこと無い人もお気軽にどうぞ!
美味しい豆料理をみんなで作ってたべちゃいましょう★

日時:2012年2月18日13時半~19日15時まで

場所:暮らしの実験室やさと農場(茨城県石岡市)
    【電車】常磐線石岡駅からバスで25分/徒歩15分
    【車】常磐道石岡千代田ICから15分

農場集合:13時半(石岡駅12:35発の柿岡行きバスがあります)

参加費:宿泊    6500円(持ち帰り味噌2キロ+宿泊、食事込み)
     19日のみ 4000円(持ち帰り味噌2キロ+農場利用料、食事込み)
     ※2日前からキャンセル料が発生します。16日1000円/17日2000円

内容:味噌仕込み、豆腐作り、あつあつ豆乳鍋、農場見学 など

持ち物:味噌を持ちかえる容器(密閉性があるものがよい)
     寒さ対策/あったかい部屋着、靴下などを持ってきてくださいね。

定員:18名(宿泊)

参加〆切:2月11日(土)

申込は以下のフォームからお願いします。
http://my.formman.com/form/pc/EAf53pC6hHZwRQZQ/
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by kurashilabo | 2012-01-18 10:38 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム0114

―ボクは農場でシロという名の平凡な中型犬を飼っている。

山羊は平和だ。山羊が草をはんでいる姿は実に平和だ。心が波打つときは山羊に草をやり、うまそうに食べいている顔をながめているのが一番。おのずと笑みが湧いてくる。それに比べて犬の食べ方はあまり上品とはいえない。ミニチュアダックスのトマト君はがっついている。いつも腹をすかしている。先日、めし時にまとわりついてうるさいので、「こんなもん食べているんだよ、君たち食べれないでしょ」という気持ちで古漬けのたくあんを鼻の前に出したらナント、ガリガリポリポリ食べてしまった!お前はそれでも犬か!。一方のシロ君は青少年時代ノラだったので食い物には慎重だ。生肉の切れ端などをやると、くわえてからまず一度口から出す。そして猜疑心いっぱいの眼で右と左をながめてから(横取りするものはいないか?)口の先で少しかじり、いけるとわかってはじめておもむろに食いだす。最初の頃は何をやっても鼻先で嗅ぐだけで食わず困ったものだった。

さて、その「えさをやる」だが、これはごく日常的な行為だが、よく考えると実に不思議で謎が深い。人はなぜ動物をみるとすぐえさをやろうとするのだろう。野良猫であれ、公園のハトであれ、池の鯉であれ、サルであれ人はすぐにえさをやりたがる。飼っている犬や猫でもそうだ。私たちは飼っているからえさをやると考えがちだが、むしろえさをあげたいから飼っていると言った方がホントに近いのではなかろうか。あげたえさを美味しそうに食べてくれるのを見るのがうれしく楽しいのである。豚や鶏でもそうだ。与えたえさをガツガツと食い込んでいるのをながめるのは実に気持ちがいい。こんなアホなことをして喜ぶのは人間だけだ。だとしたらそこには人間独特の動機があるはずなのである。「えさをやる」とはどういう行為なのだろう。なぜそれは楽しいのだろう。「食う」というのは動物にとって最大の関心事だから、コミュニケーションの手段として最も普遍性があるということはあろう。動物との握手のようなものだ。お近づきになり(文字通り)敵意がないことを示すものとして。手なずける手段として。しかしそうであるにしてもこれはおもしろさの説明にはならない。

次に「えさをやる」はgiveだが、その時takeは何ら期待していない。giveだけというのは重要だ。takeがあればそれは交換という経済行為であり、相手との関係はそこで切れる。しかし動物は「お返し」を考えないので、えさやりは純粋なgiveとなる。そのことで相手を服属させ、自分の世界にとり込み、一体化したような気持ちになれる。自分の子どもにひたすら与え続ける母親の心理と同じだ。人の日常は(社会や経済)交換を原則としていて、そこでは生身の自分、子どもとしての自分は抑圧されている。その抑圧は社会や経済が極度に高度化した現在では耐え難いものとなっている。そのような社会に生きる人間にとって、純粋なgiveである「えさをやる」は社会的自己にあいた穴であり、子どもの自分になって、生身で外の自然とたわむれる通路となる。それがおもしろいのではなかろうか。いまひとつ人間が言葉の世界に生きているということがあるだろう。(この項、続く) 
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by kurashilabo | 2012-01-14 10:55 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム0107

―ボクは農場でシロという名の平凡な中型犬を飼っている。

しつけは全然していない。以前飼っていた犬も全然しなくて特段困らなかったし。ただただ愛情を注いで飼えばいいと思っている。いつも気に掛け、会ったら眼をみてあいさつし、時々なでたり遊んでやり、不快はとり除き、怒ったりはたいたりはしない。その程度のことを心掛けているだけだ。犬の本をみると、沢山のしつけるべき事柄が並んでいるが、そんなことはできないし、必要だとも思えない。

食事の時の「待て」とか「伏せ」、あるいは散歩のときは主人の横について勝手に動かないとか、こうした服従訓練をして何が面白いのだろう。散歩は犬の散歩であって、僕が散歩したいという訳ではない。犬はひたすら形而化的で、至るところの匂いをかぎまわり、草をかき分け、出会った犬の匂いを確認し、一日ごとに自分の中の匂いで作られた世界を更新する。それが彼らの快感であり満足なのである。匂いの世界は人間様にはイメージできないけれどもきっと花園のように豊かな世界なのだろう。盲導犬のように人の横につき従うように歩かせるのはストレスでしかない。

今のところしつけをしなくて大きな問題はない。いい子でいてくれる。しかし将来もそれでやっていけるかどうかはわからないし、しつけなど不要と一般化できるとは思っていない。シロとボクだからとりあえずなんとかなっているのかもしれない。犬の性格は個体差が大変大きい。(猫と比べるとよくわかる。猫はなんだかんだといっても皆似ている)また、犬種で性格が全然違う。(これも猫と比べるとよくわかる。)家畜化された動物で、これほど個性がはっきりし、個々に対応を変えなければならない動物は他にいない。

飼い主である僕の方についていえば、自分が犬を飼うのが上手だと思ったことはない。ないけれども慣れているということはあるかもしれない。犬は何度も飼ったし、日頃、ヤギや豚や鶏、猫など扱っているので生き物はなんとかなるという(根拠ない)思い込みがある。距離のとり方とか危険の判断とか、連中の心の動きとか。シロはいい子だが、それはシロがシロであり、僕が僕であったからだ。犬の現在は、どんな場合でも当の犬と飼い主の共同作品なのである。(アレ…しつけについて書こうとしたのではなかった…)で、「愛情を注いで飼う」というと簡単なようだが、よく考えるとどういうことなのかわからない。僕もそうだが、その言葉と「かわいがる」を区別できないのである。そこが難しい。 

「かわいい」は日本語(人)特有の感覚だとよく言われる(けど本当かどうかは知らない)。同系列の「かわいがる」もかなり日本人的で、扱いが大変難しい言葉だ。そこには「慈しむ」という意味とともに、いじくりまわす、ねこかわいがりするといった隠微なニュアンスも含まれている。親子のように自他の区別のない、肌と肌が密着するような。その筋の人から「かわいがってやろうか」と声を掛けられたら逃げた方がいいし、相撲業界では「かわいがり」と称してリンチの如きことが行われていたという。おそらくそれは拡大解釈ではあるかもしれないが、誤用ではない。「かわいがる」と「いじめる・虐待する」は紙の裏表のようなあやういものの気がする。犬は犬であるから楽しくおもしろいのであって、過度に擬人化して「かわいがり」、人形のように服を着せたり、人間様社会に服従させたりしてもツマラナイのではなかろうか。犬がれっきとした犬として人と共にいるからこそおもしろいのだし、多くの気づきを与えてくれるし、私たちと自然を媒介してくれるのだ。「犬の顔をした人」にしてしまって何の意味があろう。かわいいけどどこか異物、そのようにいてほしいのである。しかし残念ながら品種改良も飼い方の大勢も「かわいいだけ」の方にいっているようである。S
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by kurashilabo | 2012-01-07 10:44 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

新年のご挨拶

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明けましておめでとうございます。

昨年は、震災に原発事故と成長拡大を良しとしてきた人間社会のターニングポイントといえる年でした。
地震の際には農場の建物は無事でしたが、暫くの間ライフラインが断たれました。
でもそんな中だからこそ、35年間農場が培ってきた、人と自然と生き物の循環する暮らしの強みを実感しました。

3・11を契機に、ますます大地と共に、生き物と共に生きる暮らしの大切さを伝えていく活動を展開していければと思っています。

今後ともご支援のほどよろしくお願いいたします。

暮らしの実験室 スタッフ一同
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by kurashilabo | 2012-01-03 22:30 | お知らせ(告知) | Comments(2)