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ふみきコラム 放射能のこと③

農場から車で5分ほどのところに小さな茶園があり、今時めずらしく製茶と販売もしている。ご承知のようにこのところ神奈川・千葉・茨城などの茶葉から基準を越す放射性セシウムが検出されていたので、そこの御主人も自主的に検査したところ、予想通りというか、やはり基準を越えていたという。それで今年の出荷は止めにしたとか。茶葉は生葉を洗わないし、製茶で乾燥するとグラム当りの量が高くなる等の特殊事情があるのかもしれない。

野菜類で基準を越えたものは今のところ茨城では報告されていないが野菜も雑草もその程度には汚染されているということだろう。(当地が特に高いという訳ではない。茨城北部はやや高いが南部は東京とさして変わらない。)現在私が一番頭を悩ましているのは草を鶏や豚に与えていいのかどうかということだ。

牧草や雑草はここの農業のベースに組み込まれていて、それがやれないとなると大問題なのである。特に養鶏は山岸式養鶏法を継承していて、「牛のように鶏を育てる」という考えがある。ヒナの時から草を沢山与え、内臓を鍛え、頑丈な体を作り、良い卵を長く産んでもらう、そういう考え方である。自家配合飼料(小麦、米ぬか、魚粉など)と草を2本柱にした養鶏である(現在はそれに給食残飯発酵飼料を加えて3本柱となっている)。

草を与えなくても粉末牧草(輸入品)を5%程自家配に加えれば、おそらく実質的な問題は起きない。そういう選択はあるが、それでいいのかどうか。楽にはなる。しかし畑で沢山の草を刈って毎日トリや豚や山羊に与えるのはここの農業の根幹だと思っていて、その畑(土)と動物の循環が切れると何か別物になる気がする。草を卵や肉に換える、それがここのやり方だ。豚に沢山の草を与えるような事も普通の養豚ではしない。
しかし豚が喜々として喰いつく様をみると与えずにはいられない。それを毎日やるのはけっこう負担なのだが、農場ライフの基本の楽しみだ。それができないなどという馬鹿なことがあるだろうか。緑餌多給というここの農法の特徴がこんな形で問題になるとは思ってもみなかった。

しかし放射性物質も確実にトリ、豚、山羊に入っている。とりわけ卵はニワトリのミルクであるから(黄身は胚、つまり黄身についているポツンとした点がヒヨコに育つためのミルクだ)早くでる。牛乳と同じである。もうとっくにでているはずだ。あえて言わないが、それを承知で草を与え続けている。同じところで作った野菜を日々自分が食べているのだから、それを動物たちにやって悪い訳がなかろうという理屈である。(当地の汚染レベルは「まだそういう考えでやれるレベル」だと判断している。

もしこの農場が福島市近郊にあったならば、また違った判断をしたはず。)気にする人は気になるだろう。しかしそれがここの農法なのである。そこは譲りたくないライン。安全は常に考えているが、安全だけが判断基準ではない。安全は大事だが至高の価値ではない。安全は常に相対的なものである。また、得られる安全と、それにかかるコスト(人生上の、また社会的な。単に経済的な意味ではなく)をハカリにかけることも必要だ。

これはすでに高齢者の私の姿勢だが他の若い農場スタッフにはまた違う考えと判断基準があるだろう。それ以上にこの農場はたまごの会時代以来、自給農場として作られ維持されてきた。現在はほぼ農場に任されている形だが基本は会員のものである。その会員がやはり最終的にはそこを決める事になる。そのような卵はいただけない、となれば生産農場としては閉鎖という事も視野に入ってくる。脅しではない。食べる人が判断するのが当然なのである。この、たまごの会スピリットはまだ生きていると思っている。S
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by kurashilabo | 2011-05-28 11:40 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

僕らは夢を喰って生きている

上映会が終わりました。
50名定員のところ60名以上も参加があり、上映後のワークショップにも半数の人が残ってくださり、「どんなカフェがあったら良いか」をテーマに大いに盛り上がりました。

有機農家の中でも、もうやさとを出た人も、「出る準備(心積もり)は常にしている」という人もいるこの時勢にカフェとは何ともお気楽な話ですが、このご時勢だからというのが強くあります。

基本的にどんなに良くても今以上に良くなる事はなく(最悪のシナリオもまだ十二分に残されている)、先行きの見えない不安、身動きの取れないもどかしさの中でみんな気持ちが滅入っている(僕らは夢を喰って生きてきたはずなのに!)。

アンケート(回収率50%)ではワークショップが楽しかった事やカフェ作りに興味があるという意見を多数いただきました。カフェという安易な幻想で気を紛らわせているのか?そうではないと思います。

例えば「原発に賛成か反対か」という分かりやすい二元論で立場を表明する事はある意味では簡単で誰にでもできる事ですが(それも大事だけど)、自分という人間(性別、年齢、職業、居住地域など)を最大限に活かした発信・表明をする方がリアリティーがあります。

「カフェをやろう」というフレーズには、「自分はやさとにいる」「農業を続ける」「ここのものを食べよう」「がんばろう、やさと!」(←これは?)という事が言わなくても含まれています。
本当にどうしようもなくなって避難しなければならなくなったら、その時に避難すればいいのであって、その直前までは「いる」のだから、いるからにはそこに全身全霊いる、そして明るい未来を描く。そうした良いエネルギーが集まっていれば、やさとは、ここは大丈夫!(えらく精神論だなぁ。)

カフェプロジェクトは今回参加してくれた方に声を掛けて、これからやっていきたいことを話します。別の映画上映をするかもしれないし、バザーをするかもしれないし、一日喫茶をやるかもしれない。建築よりもコンテンツを実行していきたいと思っています。

イバ
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by kurashilabo | 2011-05-28 10:44 | 週報からの抜粋 | Comments(0)

『幸せの経済学』やさと上映会終了

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5月22日、『幸せの経済学』というドキュメンタリー映画を農場横の旧給食センターにて上映しました。

今回、映画の上映会場に選んだ旧給食センターは、八郷のお豆腐屋さんが現在持ち主なのですが、10年近く使われることなく、かなり荒れている状態でした。私たちは、建物の周りの草刈、会場にする元調理室と託児スペースにするための和室、トイレなどを2週間ほどかけて片付け&大掃除しました。

電気も水もきていないので、農場から電気をひっぱったり、水を汲んで運んだり、昼間に映画を見るので窓をすべてダンボールでふさいだり、大掛かりな作業となりました。でも、徐々にイベント会場らしくなっていくとどんどんワクワクしてきました。
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そして、映画上映会当日は、私たちの予想を上回る参加者が集まり、立ち見もでるほどとなりました。
この映画は、インド北部のラダックという村が、10年くらいの期間で急速に近代化していくことで、人の心や社会に大きな影を落としていく様子を描いた『懐かしい未来』の続編として作られた映画で、世界がグローバル化したことによる弊害と、地域の文化や伝統、暮らし方(経済)を守ることの大切さを訴えているものです。映画そのものは60分程度のもので、映画を見るだけでなく、そのあとワークショップを行って、実際のやさとにおけるローカルアクションの一提案として、「やさとにカフェをつくったら??」というテーマでグループごとに話し合ってもらいました。c0177665_164871.jpg

初めて会った人同士のワークショップは少し緊張感がありましたが、みなさん積極的で、どんどんアイディアを出したり情報を交換し合って楽しい時間となりました。

日替わりカフェ、サロンとか公民館みたいな機能、情報掲示板、移動カフェ、地域のおもしろマップ作り、お年寄りの知恵を教えてもらう場・・・etc

「こういった場があったらいいなー」という、みんなの希望を発信しあって共有する時間はワクワクします。このアイディアの中からひとつでも実現できたら嬉しいです。
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今後も「やさとにコミュニティカフェを作る」という夢を持って、集まりあう場を継続していきたいなーと思います。

文:やさとにカフェを作ろう実行委員会 いぇじん
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by kurashilabo | 2011-05-24 16:44 | レポート(報告) | Comments(1)

ふみきコラム 自粛ムード

3.11以降、各地の観光地は(放射能が関係ないところまで)閑古鳥が鳴いているようである。農場でのイベントも参加者が以前の半分程になった(これはコンテンツも関係しているかも)。ウーファーも印象では少なくなり、特に外国人ウーファーは全く来なくなった(これは放射能関係か)。

みんな自粛している。自粛するな、自粛したら経済が回復しないという意見もあるが、それでも人々の気分は高揚しない。今回の自粛ムードは昭和天皇が死んだ時のような「こんな時に不謹慎」というのと少し違う気がしている。皆、どこか「遊び」「はしゃぎ」気分に入れないでいる。それは思うに地震・大津波・原発事故で起こったこと、見たことを未だに消化できないでいる、受け止めきれないでいるからではなかろうか。それを言葉にし、自分の中の納まるべきところに納めることができない。

大津波も原発事故も、戦後私たちが生きてきた日常の意識、意味秩序、世界観を越えて深いレベルに達しているということであろう。大津波はその映像に「こんなこともあるのか」と驚くばかりだが、「天災」ということばで済ませば済ますことができるかもしれない。(無数の人間ドラマがあるに違いない。しかし加齢と共に涙腺がひどく弱くなっていて、ドラマはできるだけ見ないようにしている。)たまたま目にした本に、明治29年、死者2万7千余を出した三陸津波に接して29歳の正岡子規がしたためた詩があった。

「太平洋の水湧きて、奥の浜辺を洗い去る。あわれは親も子も死んで、屍も家も村も無し。」

屍も家も村も無しはつらいけれども、天災は時として同じようにやってくるのである。おそらく違いはあのガレキの量だけだ。あのガレキが近代百年だったのだ。(大津波はことばとしては天災で済むが2ヶ月以上経って未だに行方不明が1万に近いのに驚く。一瞬にしてそれだけの人がどこに行ったか分からない、消えてしまう、そんな経験は戦後初めてのことだ。遺体がなければ葬送もできない。葬送しなければ彼らは居ないのに居続ける事になる。これでは次に進めない。遠からず国として葬送の儀礼をとり行う事になるだろう。)

原発事故の意味するところは言ってみれば簡単だ。原子力は「人間の暮らし」とは共存できない、ということを誰の目にも分かる形で示した。原子力発電が始まって約50年の間にスリーマイル、チェルノブイリ、フクシマとシビアアクシデントが起こった。これは小さい頻度ではない。また地震や津波の想定の問題でもない。どこでも事故は起こる、ということである。巨大なリスクそのものである原子力を人は永続的にコントロールできない。コントロールできなくなった原子力は誰の手にも負えず巨大な災厄となる、それを証明した。それができる(原子力の平和利用)とした科学者、政治家、企業人は皆敗北したのである。

分野は全く違うが、近代畜産(農業)の隆盛には実に沢山の科学者、政治家、企業がかかわっている。しかしその現場を普通の感覚でみれば、それが人々に幸福をもたらす技術でない事は誰でもわかる。賢いはずの人たちも時として非常にオロカである。愚かなこと、狂気も集団で為せばそれが人々の日常風景となる。1960年代以降の(?)現代技術はITなどを含め、どこか狂気をはらんでいる気がする。(願わくば農場はそんな狂気に染まることなく、平凡であたりまえな暮らしと時間が流れる場所でありたい。)戦後60年がはらんだ愚かさを反省するにはまだまだ自粛が足りないというべきか。S
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by kurashilabo | 2011-05-21 19:35 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

キッチンから 5月

待ちに待った新タマネギがとても嬉しい今日この頃です。みずみずしくてとても美味しい。生のままサッパリもよし、じっくり炒めてコクのあるスープにしてもよし、まるごとアルミホイル包んで、オーブンでじっくり焼いても美味しそう。。と夢が膨らみますが、みずみずしい新玉葱はまず生で食べておきたいっと思います。薄くスライスして、サラダや、濃い味の一品(角煮や照り焼きなど)にサッと混ぜるとサッパリとしたアクセントになって美味しいですね。玉葱スライスは、少しお酢を入れた水に漬け置き、辛味を和らげておくと食べやすいです。“春菊と卵のサラダ”にスライス玉葱を混ぜ込んでも美味しいです。半熟卵をザックリ砕いて、マヨネーズ・マスタード・塩・胡椒で和えます。そこにスライス玉葱・春菊を加えてザックリと混ぜ合わせたら出来上がり~♪卵と春菊ってとても合いますよね。そのままでも充分ですが、さらに遊びたい時は、サラダは薄味に仕上げて、上からタレをかけて変化を楽しんだり。。和風にしたい時は鰹節をふりかけて、酢・だし汁・醤油・胡麻油を合わせて作った和風タレをかけたり。。といろいろ楽しめます♪A

大根が葉っぱまでまるごと美味しいです。冬季の方が甘みが強いですが、今の物も充分美味しくいただいています。昨日は大根サラダを作りました。大根は薄切りにして、酢水にしばらく漬けて辛味を和らげます。次に大根の水を切って、お酢:砂糖:塩(3:2:1くらい)を混ぜ合わせ、軽く揉んでおきます。大根の葉っぱは、小さく刻んで塩揉みし癖を和らげます。しばらくしたら、塩揉みした葉をサッと洗い、味付けした大根スライスの中に混ぜ込みます。最後に、刻み大蒜を胡麻油でローストして、その大蒜を油も一緒に大根スライスに回し掛け、サッと混ぜたら出来上がり♪大根の根っこから葉っぱまで無駄なく使えて、白と緑の彩りがきれいな一品です。お好みで、ジャコを混ぜ込んだり、刻み柚子をちらしても美味しいです。また、話が変わりますが、新玉葱。生でスライス玉葱もいいですが、蒸し焼きもいいですよ。ザックリと大きめに輪切りにして、蒸します。後は油を敷いたフライパンで表面をこんがりと焼くだけ。味は塩・胡椒で。玉葱がばらけてしまわぬよう、丁寧にフライ返しなどを使って焼くと仕上がりが美しいです。玉葱自体がとっても甘いので、薄めの味付けでどうぞ♪A

野菜の品目がにぎやかになってきました。レタスもシャキシャキしていて美味しいです。レタスといえば、この間、スタッフの小松君がレタススープを作ってくれたのがとても美味しかったので、代わって紹介します♪昆布と鰹だしをとったスープに薄切りした玉葱を入れて熱を通します。塩・胡椒・ナンプラーで味を調えたら、食べる間際にちぎったレタスをスープに入れます。熱いスープにでサッと熱を通したレタスはしんなりした中にもシャキシャキ感が残り、食感が楽しめます。また話が変わりますが、エンドウ豆が食卓にあがりだしましたね。今朝も収穫しながら、去年の初夏を思い出しました。こんなふうに食卓にあがる野菜の顔を見て、季節を感じられる事はとても幸せだなぁとしみじみ感じます。さて、今晩は何を作ろうか。。体力が残ってたら、玉葱がたくさんあるから、玉葱と小松菜のキッシュでも作ろうかなぁ。玉葱があると料理がより楽しい。あるうちに玉葱オイルを作っておこうかな。炒め物・ドレッシング・オーブン焼にすぐ玉葱の甘い風味をプラスできて優れ物ですよ♪スライスした玉葱と刻み大蒜少々を、フライパンにひたひたに敷いた油でじっくり炒める(煮る?)と出来ます。保存調味料ばんざい。 A
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by kurashilabo | 2011-05-20 15:40 | 週報からの抜粋 | Comments(0)

結局ユッケって何やねん

先週で一旦書きたい事は終わったので、2つ3つ駄文を書いた後、また鶏の事も書きますね。

さて、日本史の定義に疎いので詳細はご了承願いますが、明治から現代・現在までを含んで近代化のプロセスにあるとすると、実に150年という非常に長い時間をかけて近代化している事になる。僕はこのプロセスの120年目に生まれて、たかだか30年生きているだけなので、この世の中の仕組みがいまいちよく分からない。僕が生まれた時には今の世はあらかた出来上がっていた訳なので。なので、今世の中に存在してる問題が本当にはどこに原因があるのかよく分からない。例えば「食の安全」や「有機農業」を考えた場合、農薬が開発された事が問題なのか、農業者が高齢化した事が問題なのか、都市と農村が住み分けされている事が問題なのか、資本主義が問題なのか(この場合は150年の枠に収まらないが)、どこがどうなってそうなって今に繋がっているのか因果関係がよく分からず、結局、ユッケって何やねん、と思ったり。

そんな分からない事だらけの僕ですが、しかしそれでもなんとなく想像できそうな事がある。それは、きっと重要な事は最初の方に決まったのでは?という事。仮に僕が150年前に生まれていて、それはそれは莫大なお金と権力を持っていたら、自分と自分の子孫が末代までお金を儲け続けられるような仕組みを考えて、それを社会システムの中に組み込みたいと考えるだろう。そしてそれは一般の人にとっては当たり前すぎて誰も疑問を抱かないようなもので、仮に疑問を抱かれても上手く操作して人の気を逸らすようにするだろう。それが何かは分かりませんが、例えば「お金」とかいいと思いますね。お金を作って銀行を作れば子々孫々おいしい思いができるはず。

つまり何が言いたいかというと、銀行の事は問題ではなくて、最近所々で聞く「知らないで加担していた自分にも責任がある」というセリフ。これは「人生の最終的な責任者は自分である」という文脈で、自分自身に言い聞かせる場合にのみ有効なセリフであって、誰かから言われたり、或いは誰かがみんなに言ったりするようなセリフではないという事。そこは勘違いしてはいけないと思う。

イバ
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by kurashilabo | 2011-05-14 21:26 | 週報からの抜粋 | Comments(0)

ふみきコラム 安全と安心って

これから私たちはどんな口上をもって野菜や卵を売っていったらいいのだろうか。「無農薬有機栽培で安全安心です。が、放射能が多少かかっています。」これではちょっと売りにくい。「放射能レベルはごく低いですよ。ほとんど無視していい値です。」と言ったところで無意味。誰にも実際のリスクはわからないのだから「君子危うきに近寄らず」だ。「出荷を増やしていくのはもう無理なのョ」という声も周辺で少なくない。

しかしこれは事実上の敗北宣言で、出荷は減る一方になり、遠からずこの農場はたちゆかなくなる。状況が好転するまで(そんなことがあるか?)持ちこたえるだけの基礎体力は無いのだから。こういう“自粛”状況はかなりマズイ。致命傷になりかねない。「安全を売ってきた有機農業は終わった。」と言うしかないのだろうか。空から危険が降ってくるのではどうしようもない。そのうえで尚、有機農業がありうるとすればどのような形と口上に於いてだろうか。

有機農業は「安全な」農産物ということで社会に広く受け入れられてきたが、実は安全という事は必ずしも本質ではない。農という営みは元来、(作物を)育てる、(家畜を)飼うという行為を介して人の内なる自然性と外なる自然を架橋し、農的風景(風土)や共同体という人と自然の共生装置を産み出すというところにおもしろさも文明史的位置もあったのだが、いわゆる農業の近代化は総じてそれを破壊する方向で作用した。

1960年代から急速に展開した農業の近代化は、大規模化(選択的拡大)、機械化、化学化(農薬・化学肥料・ビタミン剤・抗生物質etc.)、産地化(広域流通)などを特徴としていたが、その中で皮肉にも私たちは作物を失い、家畜を失い、共同体を失い、風土を失い、そして人と自然、人と人の関係は疎遠なものとなった。農業は農業近代化の中で農ならざる何者かになったのである。有機農業はそういう時代のオルタナティブ、あるいは失われたものの回復運動として歴史に登場した。残留農薬の問題はトータルな視点でみれば近代化農業のもたらした諸問題の一つにすぎない。

しかしそれが強調されてきたのには時代的理由がある。有機農業は元来ごく少数の農業者の運動だったのだが、それに敏感に反応し社会運動化したのは主に都市住民(消費者)であり、農薬汚染が当時問題化していた多くの公害問題の一つ(食品公害)として理解されたからだ。農業者とすれば、そのような消費者と組む以外、有機農業を経営的に成り立たせる方法はなかったので、安全性という側面を強調していくことにもなった。だから放射能によって安全(という気分)が損なわれた事は消費者との関係、つまり経営的には大問題であるが、それで有機農業の役割が損なわれた訳では全然ない。放射能が降ってきたからといって、それは有機農業とは何の関係もない事象なのである。むしろ放射能で「安全」に拠りかかって成り立たせていた部分が崩れ、人と自然、人と人のよりよい関係を築くという有機農業の、よりピュアな本質と力量が問われるようになったという事であろうか。たぶんそういうことなのであろう。

それでモノが売れるかというと、?であるけれども、あとは人々の(会員の)善意にすがるしかないなぁ(喜捨)。タマゴと野菜、お願い申し上げます。S
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by kurashilabo | 2011-05-14 20:19 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

豚舎から

鉄は錆び、木は朽ち、プラスチックは劣化する。
自然の摂理に豚達のパワーが加わることで、豚舎の老朽化は激しい。
豚房の仕切り板や壁板のあちこちにのぞき穴ができ、脱走劇も珍しくない。
子豚のコタツは、母豚にひっくり返されコードは噛まれ、ついに限界がきたのかショートした。
取りあえず絶縁テープで応急措置をしてプラグインするとスパーク!
これではかわいい豚達が焼き豚になってしまうので、新品の家畜用ヒーターを購入☆
今まで使っていた家庭用のコタツと違って、落下したら自動電源OFFする安全設計♪
やれやれ、これで子豚たちも安心して寝られるだろうと思ったら、今度は麦圧ペン機が動かない。
輸入配合飼料の購入が当たり前になった今、自家配合している養豚家は少ない。
自家配合にこだわっている養豚家も、圧ペン麦を単体で購入していることが多く、麦を自分で圧ペンする養豚家はさらに少ない。
小型の麦圧ペン機は今では「レア農機」だ。
私もそれなりに古い養豚場も覘いてきたつもりだったが、麦圧ペン機に出会ったのは今回がお初。
おそらく圧ペン機に付いていたであろう企業名のプレートを見つけ電話で問い合わせたが、経営者が亡くなり廃業したとのこと。
圧ペン機を検索エンジンで調べてもみたが、飼料用の圧ペン機なるものは見つけることが出来なかった。
なんとか私の素人整備で圧ペン機は復活し、今のところ子豚もすくすくと育っている。ホッ。

小松
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by kurashilabo | 2011-05-14 16:35 | 週報からの抜粋 | Comments(0)

5/22 「幸せの経済学」やさと上映会やります

「幸せの経済学」やさと上映会

日時:5月22日(日)(国際生物多様性デー)
開場:13:30 上映14:00~15:30
感想交流会:16:00~17:00
会場 旧八郷給食センター(茨城県石岡市柿岡1319-1)
入場料 事前申し込み 700円/当日 1000円

<お申し込み方法>
メールまたはFAXにて以下の項目を記載のうえお申し込みください。
①代表者氏名②参加人数③キッズスペースの利用有無

送信先 mail yasatocafe@gmail.com
    TEL/FAX 0299-43-6769

主催 やさとにカフェをつくろう委員会
協力 暮らしの実験室やさと農場

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●やさとにカフェをつくろう委員会とは
やさとで育ったお米やお野菜でいただくランチやスイーツ、建物もやさとの間伐材、
道行く人が気軽にお茶飲み休憩できるような、そんなカフェを作れたらいいなと夢見る仲間たち。
映画を観られた皆さんと、ローカリゼーションの具体的なアクションとして一緒にカフェづくりができたらと思っています。

●廃給食センターを使ってやります
昨今、少子化の影響で廃施設化が進み、またそれに合わせて再活用の動きも盛んになっています。
私たちは旧給食センターをカフェの候補地として考えています。
上映会の際に建物に入って、どんな場所なのか見て知っていただけたらと思います。

●感想交流会
映画を見たあと、映画の感想をシェアしたり、やさとという場所でのローカリゼーションについて考える場を持ちたいと思っています。大きな震災を経験した今だからこそ、考えてみたいこと、感じていること、未来への希望を語り合えたらと思います。(自由参加)
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by kurashilabo | 2011-05-09 20:45 | お知らせ(告知) | Comments(0)

ふみきコラム 放射能のこと②

「北関東から南東北一帯は放射能で汚染されてしまって、もう“安全”を売ることはできなくなった」と言ったが、その一方で「それはそうだが…」という納得しきれない何かが自分の中にある。そこには放射能の実際のリスクと、放射能というコトバの問題(放射能という脳内妖怪)が微妙にからみ合っているからだ。

失われたのは実際の安全ではなく、「安全」という気分ではないかという疑問。私たちは日常意識することは少ないが、様々なリスクと共に生きている。環境的なリスクに限っても、たばこや医薬品・医療による体内汚染、食品添加物や残留農薬、環境中の万を越える化学物質…。放射能が無くても肺ガンなどずっと増え続けているではないか。

こうした現実的で大きなリスクにくらべれば現状レベルの放射性物質などとるに足らないものだという気もする。中長期的には環境中の危険因子が一つ増えたという程度のところに納まるのではなかろうか。(但し、フクシマ第一の周辺、郡山、福島市、いわきあたりまではもう少し注意深さが必要か。現状レベルの放射能のリスクがどの位か誰も確実に言えない。研究者間でも意見はまちまち、というのが一番困る。)

だとしたら人々のワーワーとしたあわてぶりは何だ、自分のうろたえはどこから来るのか?「それが放射能だから」である。「核」はずっとカタストロフのイメージをもって語られてきた。原発もまた然り。原爆、水爆、核戦争、毛が抜ける、DNAを破壊する、発ガン性と催奇性…、脳内放射能はどこまでも破滅的である。
そこにはひとかけらの未来も希望もない。その恐怖の大魔王がついに降臨したのである。フクシマ第一の爆発の映像と共に。それは強制避難区域が設定されるたびに、防毒マスクをつけた白い放射能防護服と共に、規制値を越えたホーレンソーや原乳が廃棄される映像と共に、よりリアルになり、すでに誰もコントロールできない妖怪になってしまった。これはパニック映画そのものではないか。

「しかし(残念ながら?)原発事故はカタストロフではないし、放射能など言ってみればたかが放射能にすぎない。いずれ日常が帰ってくる。」私たちはこのように呪文をとなえ、「放射能」という呪いを解かなければならない。そうしてはじめて実際のリスクを冷静に考えることができるようになる。そうすれば私たちの生活環境はもともと全然安全ではなく、むろん放射性物質という危険因子が増えるのはありがたいことではないが、大勢に影響するほどではなく、(現状では)放射能で損なわれたのはむしろ安全だと妄想していた私たちの観念の方なのだと気付くだろう。放射能が来たから安全でなくなった訳ではないのである。

しかしまた、有機農業者としてはあるまじき言い方になるが、人々が求めているものが実際的な安全というよりも、安全・安心という気分だとすれば、やはり「安全」は失われたのである。S
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by kurashilabo | 2011-05-07 21:56 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)