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ふみきコラム20170422~安倍昭恵という難題

 「(教育勅語を朝礼で唱えさせるのも)教育基本法に違反しない限り問題ない」政府高官(文部副大臣義家某)がこう言うのだからびっくりである。びっくりというより理解不能。夫婦はむつまじく、兄弟は助け合い、父母を敬へ、忠君愛国、一朝事あらば一命を国(天皇)に捧げよ。減私奉公。教育勅語はそんな内容だったはずだ。その教育を受けた若者たちが先の大戦で「天皇陛下万歳」と叫んで大勢死んだ。今の教育基本法はその痛切なる反省、教育勅語的教育の否定として成立している。そう思っていた。「教育基本法に反しない限り」なんて意味不明で、教育勅語自体がその精神に違反している。そのはずだ。

 さて、今や時の人、安倍昭恵氏である。彼女は教育勅語を園児に暗唱させているくだんの「森友学園」(保育園)で父母を前に何度か講演し、その教育精神を称えている。そしてその精神に基づいて新しく建設され(るはずだった)小学校の名誉校長についた。新聞報道等からみると、「不本意にも名前を使われた」のではなく「賛同していた」のは間違いなさそうである。

 昭恵氏は反原発、有機農業、スピリチュアル等々われわれに近いセンスの持ち主なので、農場周辺の人たちの中にも彼女に好意的な人は少なくない。第2次安倍内閣成立以前のことだが、どこぞの環境系のBARで飲んだくれた昭恵氏にあったことがある人もおり、そのざっくばらんなフツ―の感じが好感を持たせてもいるのだろう。ボクもその人となりに興味があった。

 その昭恵氏が森友学園がらみで時の人となり、オヤオヤどうしたことかと思っていたのである。これも新聞の拾い読みだが彼女はあるインタビューで「宗教はどちらかといえば神道で…」「…私は日本精神が世界をリードしなければ“地球は滅びる”と本気で思っているんです。」と語っているそうだ。それを聞いてボクはかなりスッキリと「安倍昭恵という問題」がわかった気がした。そしてこれは難題だなぁということも。

 彼女の言う「日本精神」が何なのかこれだけではわからないが、「…が世界をリードしなければ“地球は滅びる”と本気で思っている」という下りを聞いて即「ああそうか、これは八紘一宇の個人版現代版だな」と思ったのである。古い人は良く知っているはずだが八紘一宇とは戦前の日本が大東亜共栄圏をスローガンにアジア侵略をした時、そのバックボーンとなった思想だ。世界が民族や宗教や国家を越えて一つの家となり、王道楽土を築く。日本にはそのための特別な使命があり、天皇は世界の盟主となる。そんな内容だ。日蓮主義者にして天皇主義者の田中智学が発案し、宮沢賢治や石原莞爾など多くの人を引きつけた。夜郎自大な、などと笑ってはいけない。当時、世を憂う多くの人々がその理想主義にもっていかれ、八紘一宇は大日本帝国のスローガンにまでなった。

 八紘一宇は当時の時代状況における「日本精神で世界をリードし、統一しなければ地上から戦争や飢餓、貧困等々は無くならない」という思想だ。当然ながらそこには一神教をベースにもつ西欧近代化では世界は良くならないという含意がある。近代の超克だ。昭恵氏もおそらくそう考えている。ただ、田中智学の八紘一宇は日蓮主義、天皇主義を柱にしているが、「宗教はどちらかといえば神道」という発言から推測すれば昭恵氏の言う日本精神とは自然をカミとしてあがめ、それとうまく共存してきた伝統的な農本精神や共同体志向のようなものではないかと思う。彼女の反原発や有機農業、スピリチュアルもそこに根拠を持っている。

 こうしてみると彼女がいかにわれわれに近いか、いやほとんど同じだということに気付くだろう。彼女の中ではそれが教育勅語に直結している。そこが「困ったサン」なのであり、われわれにとっての難題なのである。(続く、かな?) S
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by kurashilabo | 2017-04-23 10:36 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170408

 春はせわしない。田んぼの種まき(苗代づくり)を数日中にやらなくてはならないのにその田んぼの整備がまだ途中。春がどんどん追いかけてくる。勝手に「十三塚谷戸農園」と名付けた開拓地で一人、重機(パワーシャベル)を友として圃場整備に奮闘中。

 先に大量に切り出した竹(孟宗と真竹)を使って暗渠排水を作っているのだ。重機で幅50センチ、深さ80センチほどのトレンチを堀り、沢山の竹を伏せ込みそれを網で包む(使い古しの霜除け資材の活用)。これは泥が中に入りこまないためだ。その上に土を戻し押し固めていく。要はそれだけだが何やかんやで200メートル位つくらなければならない。要所要所にはパイプを埋め込み(100ミリVU管)止水、排水装置も必要となる。

 昨日は夕方、短時間ではあるが雷雨があり、田はドロドロ、長靴は重く、重機は滑り、腰も痛みだす。やることも理屈もわかっているが、だからといってサクサクと事が進む訳ではない。しかしやった分だけは形になっていき、それが嬉しい。土木工事は好きだ。夜はすぐに眠くなり、次の日の作業の段取りを考えているうちに寝てしまう。わかり易い日々。「リア充」というべきか、いやそもそもが「妄充」か。
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 数日前、同じ小幡(オバタ)地区内のオートキャンプ場で集団自殺があった。30代40代の首都圏の男と女4人が車の中で練炭をたき、一酸化炭素中毒で死んだ。一昨年のやはり春爛漫の今頃、近くの林道で3人が死んでいたことがあった。このあたりはそのような人たちを引きつける何かがあるのだろうか。筑波山の霊力のようなものか。

 「木の芽時」は人の心が乱れるという。冬が終わり、体も心も春夏へ向けてモードを変換しようとするのだろう。社会的にも移動が多く、人も場所もシャッフルされて不安定となる。自分とは無関係と思ってしまえばそれだけだが、社会の底に開いた虚無の穴のようで自分の中で納まりが悪い。親兄弟もいるだろうに。
 ところが社会の中堅であってもおかしくない成人男女が4人消えたというのに全国紙には1行の記事もなく、地方版に1段のベタ記事が出ただけ。一応お知らせしましたというだけの。新聞的にはあまり騒ぐべきではない事件であろうし、遺族もまたそれを望まないのはわかる。オートキャンプ場だってあまり騒がれたら困るだろう。それもわかる。しかし・・・・。そろって何事も無かったかのようにする態度は何だ。今日、午前中の気持ちの良い時間帯にそのオートキャンプ場に行ってみた。そこはよく整備された公営のキャンプ場で、公園のようなキャンプサイトには平日だというのに多くの子連れの家族がテントを開いていた。(まだ春休み中だったのか)バトミントンをやったり、それは平和そのもので、集団自殺が3日前にあったなんてウソのようでさえあった。

 集団自殺の心理などボクには全くわからない。しかしそんな選択肢が許されるなら何をやっても無意味な気さえする。極北のジョーカーではないか。そうか、皆その虚無の穴に連れ込まれないように見なかったことにしているのか。 S 
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by kurashilabo | 2017-04-09 15:20 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170325

 霞ヶ浦の南岸沿い、町村でいうと牛久市(東部)、美浦村、稲敷市、河内町あたりは首都圏に近いにもかかわらず長らく開発が遅れてきた地帯である。土浦以南の常磐線沿線は通勤圏としてベッドタウン化しているし、総武本線(成田線)沿線の千葉市から成田エリアもよく栄えている。しかし霞ヶ浦と利根川に挟まれたその一帯は交通の便が悪く、また名所旧跡も無いためだろうか発展にとり残されてきた。(江戸時代以前は香取内海カトリノウミと呼ばれた浅海がひろがっていた地帯だ。

 先日、先に開通した圏央道を「つくば牛久インター」から成田方面に行く機会があった。高架の道路からながめるその一帯の田畑や山(低地林)の荒廃が今更ながら印象深かった。かっては浅海だった広大な水田地帯以外はほとんど耕作放棄地だ。耕作放棄地が多いというよりもむしろ地域が全体として放棄地化し、虫喰い状に使われているところがあると言った方がいいくらいである。谷津田は草に埋もれ、低地林は倒木が多くツルがからみ、竹が野放図に勢力を拡大している。そして日本全国どこでも同じだが、そのようなエリアには(土地代が安いからだろう)太陽光パネルばかりが目につく。突然「アウトレット」などという異様な建築物が出現したりする。

 だが、その荒廃を嘆くことはないだろう。それで誰かが困っている訳ではないのだから。放棄地は捨てられた農地ということだが、捨てるには捨てる理由があってのことだ。もう必要が無くなったのである。しかしわかってはいてもその光景は何か胸に迫るものがあり、物思いに誘われた。かっては(と言ってもほんの数十年前までは)そこを骨身を削って耕し、手入れしていた人たちがいたのであり、人々はそこから生み出される物(富)で生きのびてきた。彼らはどこに消えたのか。そのような生き方、人生モデルがかくもた易く忘れられていいものなのか。

 例えば農家のジイさんが死ぬと、遠からぬうち納屋や蔵の大片付けが始まり、ジイさんが後生大事に溜め込んでいた古道具や農機具が粗大ごみとして捨てられる。あれやこれや、あれもこれも。農場にある唐箕(とうみ)や足踏み脱穀機、藁ない機、ハタ織り機、牛馬用スキ、穀物貯蔵缶etc.などはそのような折に持ち込まれた(拾った)ものだ。それらは土と共に生きた人たちの遺物だ。今では当の農家にとって何の役にもたたないガラクタにすぎない(農場ではしばしば活躍する)。だから死んだジイサンの人生と一緒に捨てられる。しかし本当にそれはもはや粗大ごみにすぎないのだろうか。洗濯機の新しい型が出たから古いのは捨てると同じだろうか。

 文明史的にひとつの時代が終わったということはできるだろう。土地に依存して生きる農耕開始以来の長い時代が。都市と工業の時代になったのだと。荒れるにまかされ粗大ごみとなった土地はそのような時代の一つの極相を示しているのだと。それは歴史の必然力で後戻りはできないのだとも。

 しかし本当にそうだろうか。むしろ現代はある種の熱病、あるいは強迫症に罹っているだけではないのか。そもそも都市文明はそれ自体で自足し完結できる文明ではない。人間は身体という自然を生きている以上、地上の生態系(外なる自然)内存在としてしか生きられない。だから死ぬのだ。(都市は原理的に死を受け入れない。)都市から人がボロボロとこぼれ落ちるのは生態系内存在としての人間と現代文明がもはや両立できない段階に入っていることの証左ではなかろうか。茫茫たる耕作放棄地はひとつの「問」のように現代人の前に拡がっている。 S
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by kurashilabo | 2017-03-26 15:16 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170225

 昨日会員で地元在住のS氏がひと抱えのイノシシ肉を持ってきてくれた。彼は狩猟免許をもっていて、ハンター仲間が「くくりワナ」で捕まえたイノシシの解体を手伝い、返礼にいただいたのだそうだ。20kgくらいあるのではないか、大量である。「ウリボウではないが、1年未満の若いイノシシ」だという。農場は今、豚が少なく、出荷すると農場自給分が少ししか残らない。それでこれは嬉しいプレゼントである。野生獣特有の赤く、脂肪の少ない肉だ。試食してみると若いということもあるのだろうが、とても軟らかく、ケモノ臭さも無く大変おいしい。以前にも何度かいただいたが、どれも臭みもなく軟らかい。これには少々驚いている。

 「豚部は止めて狩猟部にしたらどうか」と本気で考えてみた。現在の肉の必要量は月に1頭か2頭、肉量で50kg程度であるからイノシシはやや小さいことを考慮しても月に2頭仕留めれば足りる。(ラードはごく少ないから小さくても肉はそれなりにとれるはず)これは全く可能である。日々のルーティンワークもなくなるし、エサ代、その他経費(年間35万円)もかからない、肉質も農場の黒豚に勝るとも劣らない。(但し野生獣は年によって脂のノリや味に波があるという)処理施設もあるし、いいことずくめではないか。

 猟期が11月から3月15日までというのがネックになるが、「害獣駆除の要請が出て一年中獲っているような状況」もあるという。狩猟免許も「ワナ猟」であればそれほど難しくはないようだ。(大きい声では言えないが農場スタッフのカワちゃんは罠猟免許を持っている。何のために取ったのかは知らない。ちなみに銃の方はとるのも難しいし、管理が大変厳しいようである。)
 イノシシや鹿がここ2~30年で急速に増えていることは先回触れたとおり。それは「狩猟で肉を得る」ことが現実的課題になったということでもある。趣味のキジ猟を別にすれば狩猟などひと昔前までは縄文時代の生業か、東北で「マタギ」と呼ばれるごく少ない伝統的猟師のものだった。それが普通の「里」でも可能になっている。仮にイノシシが現在100万頭位として、生態を上手にコントロールすれば毎年20万頭位は獲ってもいけるだろう。(豚は1千万頭くらい飼われているからそれに比べれば微々たる数だが)

 ここまでは理屈である。肉はありがたいしおいしいが、一方でボクはイノシシが憐れだなという気持ちを抱え込んでいる。ワナは卑怯ではないか。とりわけ「くくりワナ」はケモノ道に仕掛けるもので(昔のトラバサミのように)痛い。またそれで死ぬ訳ではないので、痛さと恐怖で暴れるイノシシを撲るか刺すかして殺すわけである。その恨みのこもった肉だと思うと喉の通りが悪くなる。では豚を屠場で殺すのはいいのかと問うと、これも本当は根深い疑問がある。しかしそれとはまた違う罪の意識のようなもの。

 数日前「開拓地」の近くで犬の散歩をしていたら山際の道のわきの木の枝先に白い札のようなものがぶら下がっているのに気付いた。木の名前でも書いてあるのかと手に取ると「狩猟〇〇〇〇(人名と住所)、番号」などが記されていた。そうかここに罠が仕掛けてあるということか、とイヤな気分になった。(S氏に確かめるとやはりそうだった)こんな近くにあったのか、と正直胸をなで下ろした。少し前まで開拓地では「シロ」を自由に遊ばせていたのである。姿が見えなくなると交通事故もさることながらワナにかかったらどうしようと常に不安だったのだ。開拓している畑の片隅にワナ用と思われる張られたワイヤーが残っていたこともある(使われていないようだった)。
 かように狩猟については「やれるし、おもしろいし、やったらいい」という合理的な意見と「いやだな、オレはやりたくない」というより身体的な気分が水と油のようにボクの中にはある。S氏には申し訳ないが、「開拓地では狩猟はやらない、専守防衛でいく」と公言している。トシをとってただ単に殺生がいやになっているだけかもしれないが。 S
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by kurashilabo | 2017-02-26 15:12 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170218

 「捕獲獣広域で焼却―手間減らし処理推進」という「日本農業新聞」(2月9日)の記事が気になった。「害獣」をハンターが捕獲してもジビエにまわるのは1割程度で、多くは埋却や焼却処分されることになる。しかしハンターも少なく高齢者が多いのでその処理が負担になっていたが、全国的に「害獣専用の焼却施設」が建設されていて(1億6000万円位とか)狩猟者から歓迎されているというものだ。

 1960年代以降人がヤマから引き(ヤマと言えば村では今日いうところの里山のことだ)、山沿いの田畑から引いていき、その空白域にイノシシや猿や鹿が進出してきていることは先回触れた。90年代に20万頭位だったイノシシは現在100万頭に、30万頭だった鹿は300万頭位になっているという。当然ながら全国的に農業被害が多発し、「害獣駆除」が地域の猟友会に依頼されることになる。「駆除」が主目的なので報奨金のようなものがでる(イノシシ1頭7千円位?)。食肉はオマケのようなものだが、処理施設が遠かったりして鮮度が維持できない、処理しても食肉としての利用者がいない等々の理由で多くは埋却したりゴミとして焼却することになる。(ジビエはまだ十分には産業化されていない) S

 このことは以前から聞いてはいたが、殺しては埋め、殺しては焼却するするというゴミのような扱いにどうしてもなじめないものがある。もったいないといえばもったいないし、かわいそうといえばかわいそう、冒とく的な何か。そこには人間の根本の倫理に抵触するものがあるのではないか。猿についていえば、食肉とする習慣がないので、一部が医学実験用に利用される他はこれも埋却ないし焼却処分される。捕獲しては殺し、焼却炉に放り込むシーンを想像してみてもらいたい。「害獣駆除」の実際はそのようなもので、新聞によればどこぞの焼却施設では年間5000頭の予定が利用者が多くて1万頭を処理しているのだという。これは「ではどうすればいいのか」という問いとはレベルの違う話しである。

 「害獣駆除」はそうまでして本当に必要なのであろうか。彼らは人を襲いに来ている訳ではない(接触してケガをする人はいるが殺された人はたぶんいない)。その罪は稲を食い倒したとか、カボチャを食われた等々の農業被害がほとんどだ。むろんそれはそれで問題だ。しかしその被害と駆除のナマナマしさがバランスしていない。

 「農業被害がある」といえば何をしても許されてしまう精神風土がある。農家から総スカンを食いそうだが、たかが農業被害ではないか、と言ってみたい。それにこれはもっと言ってはいけないことだがその農家の多くは農業で飯を食っている訳ではない。勤めていたり、年金収入があったりして被害にあっても食うには困らない。獣害がでるような地域での農業は特にそうである。田んぼの被害とて、(一部の専業稲作農家を除けば)稲作収入をアテにしている農家などほとんどいない。獣害で離農とはいってもそれはただのきっかけにすぎない。「農業被害何百億」などという報道は数字のマジックで現実は違う。

 そもそも野外でする農業には「被害」はつきものだ。天候不順であれ、病害であれ、虫害であれ。それに獣害が加わったということだ。むろんやっかいなことではあるがそういう時代に入ったということなのだろう。長い間、人間のエリアに暮していれば野生獣と接触することはほとんど無かった。それは田舎に人とエネルギーが満ちていたからだ。今また私たちはハクビシン、アライグマ、タヌキ、イノシシ、鹿、猿等々と頻繁に出会うようになった。野生獣に取り囲まれている。彼らとの出会い方をよく考えてみることは私たちの未来の質に関わる大事なことなのではなかろうか。 S
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by kurashilabo | 2017-02-19 11:06 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170211

 正月に山梨の自宅に帰った折、30年近く前、ボクが桑を抜根し畑にしていた山間に行ってみた。山間とはいっても日当たりも良く、韮崎市街も眺望できる開けたところだ。今は連棟ハウスが建ち、露地ではブロッコリが何町歩も栽培されていた。株式会社なのだろう、何人もの「労働者」が畑仕事をしている。それは以前から知っていたが驚いたのはその畑が2メートルを越す柵(金網)で囲われ、その上端には2本の電柵が張り巡らされていたことだ。出入り口はゲートになっていて、一見収容所のようでさえある、猿対策なのだが、ここまでしなければだめなのかとびっくりした。自宅のある旧明野村(現北杜市)は10年程前までは猿はいなかった。山際の畑でサツマイモがイノシシに全部食われてしまったことはあるけれども。それが今では家の近くまで猿が出没するという。猿の惑星かと何やら笑ってしまう。

 幸い筑波山系には猿は今のところいない。もうひとつの「害獣」である鹿もいない。問題になるのはもっぱらイノシシだ。開拓地は筑波山直下なので夜ともなればイノシシの解放区となっている。米作りの期間の食害もやっかいだが、田が裸の今はミミズでも探しているのだろうか、畔を鼻で崩しまくっている。これも困る。

 獣害は全国的に深刻で山間地の人たちを悩ましている。高齢の農家が獣害を機に離農することも少なくないようである。そこで駆除が叫ばれることになる訳だが行政や地域をあげての駆除の合唱にボクは少々釈然としないものがある。そう仕向けてきたのはそもそも人の方ではないかと。イノシシの立場を弁護したい気分。

 1960年代、日本が経済の高度成長に入る以前は、農村人口は今よりずっと多く、年齢的にも若かった。繰り返し言っているように「近代化」以前の農村の生活や農業はその資源の多くを「山」に依存していたから多くの人が日々山に出入り、管理し、利用していた。その利用圧は今では考えられないほど高く、山は「人の地」でイノシシも猿も出る幕が無かったのだ。その後農村に「近代化」の波が及ぶと、たちまちに山は不要の地となり人は立ち入らなくなった。無用の長物となったのである。そしてかっての薪炭林やシバ山にはスギやヒノキが植えられた。一方、奥山では戦後の「拡大造林」政策で広葉樹は切られ、これまたスギ、ヒノキばかりになっていった。そのスギ、ヒノキも輸入材に押されて「二束三文にしかならない」ので間伐や枝打ちなど充分な管理が行われず半ば放置されたままになっているところが多い。

 山ばかりでなく、山沿いの畑や谷津田のような非効率な農地の耕作放棄もじわじわと拡大を続けている。今では山の利用の仕方を知り、山間地の田畑の管理を担ってきた人間そのものも、その多くが世を去った。1960年代以降、人は山から撤退し、山沿いの田畑からも撤退している。もはやそこは「人の地」ではない「荒野」なのである。荒野は今も広がり続けている。これが60年代以降の社会経済の大きな動向であり、「地方消滅」などと騒がれている現象もその延長線上のものだ。

  山であろうと田や畑であろうと人の地でなくなればただの地面にすぎず、無主の地となる。そこにイノシシや猿が進出してきてなんの不思議もない。それは耕作放棄すればすぐにシノタケや葛が進出してくるのと同じだ。イノシシや猿が進出しているのではなくて、人が引いていったのだ。加えて山は針葉樹林ばかりで暗く、食い物もなく、そこは彼らには何の魅力も無い。里に下ってくれば何かとうまい物にありつける。彼らも野草より野菜が、ドングリよりリンゴや柿の方がうまいことをよく知っている。

 要はその空白域を誰がどのように利用するのかということだ。その智恵が無ければどれだけ駆除しようと恒久的な対策にはならない。それもシノ竹や葛を刈っても畑として利用しなければすぐに戻ってしまうのと同じだ。ボクらはそこでイノシシやシノ竹、葛、竹を押しのけて再び人の地とすべく「開拓地あそび」をしているが、こんなことが一般化するはずもない。ただの点にすぎない。人はもうヤマが無くても生きていけるのだからヤマは「山」に返しシシ神様の地のままでいいような気もする。 S
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by kurashilabo | 2017-02-12 10:58 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170128

 開拓作業の中で竹切りはまずまず楽しい作業である(孟宗竹、真竹)。バッサバッサと倒していくのは爽快でさえある。しかしその竹の処理をどうするかが頭を悩ますところだ。燃やしてしまえばいいが、生竹は燃えにくいし、節が卓上ガスボンベのように爆発するので気が気ではない。作業的にも大変時間がかかる。結局、今切っているのは山裾を切り落としたような崖状になっているところなので、野積みにして自然に分解していくのを待つことにした。竹を胸の高さ位で切り、その切り株を杭がわりに使って4分割くらいにした竹を水平に積んでいくのである。崖の中腹に万里の長城のように積み重ねていく。

 はじめはジャマモノの処理という頭だけで始めたのだが、水平に積み重ねていくと(量が多いので)そこにテラス状の平面ができるのに気が付いた。崖の中腹なので眺めもいいし、東向きだとはいえ午前中は日当たりもある。実に気持ちがいい。

 幸い今日は風も弱く(数日、強い風が吹いていた)、そこにゴロリと横たわり午前10時の日差しを浴びながら青空を眺めていると、ウトウトと至福の時間が訪れた。セカセカと働く人たちには申し訳ないような気分。丁度そこに程好いヒノキの木が2本並んでいたので、この木を利用して小屋掛けするのはどうかと思い立ち、あとは電光石火、昨日までは無用の空間だった崖が今日はボクの頭の中では「かくし砦の三悪人」(だったか『七人の侍』だったか)の山の砦となっていったのである。

 開拓がらみで今年から「田舎の遊び方」という年間講座を開くことにしている。その中で通年テーマとして小屋と米作りを扱う。小屋はおもしろい。子どもの頃、「押し入れ」の暗く狭いところに入り込んで何かホッと安らぐ気分を味わったり、友だちと例の「秘密基地」遊びに夢中になったりした経験は誰にもあるだろう。特に男の子は。キャンプやハイキングでのテントなどにも共通する感覚かもしれない。日頃ボクたちは皮膚を介して直接外界と接触していると考えている。しかし個々の身体のまわりに人はその人と共に動く気配のような層を持っているのではなかろうか。手足が動く範囲、臭いや熱が放射されている範囲よりも少し大きいくらいの。それがすっぽり納まるくらいの場所、それが小屋だ。

 子宮回帰の願望、安心感といってしまえばミもフタもないが、ま、そういうことだろう。まだ胎児だった頃、人は子宮の中で羊水に浮かんでいる。胎児にとって子宮は外でもあり内でもある中間的な場所だ。小屋のおもしろさの核心にもそれがある。小屋を大きくしていけば確かに住宅になる。だが小屋と住宅は別物だ。住宅には「生活」が詰まっている。あれやこれやの「物」と一緒に。小屋はもっとメンタルなるもの、自己の空間化なのだ。工務店に頼んだり、設計図を引いたり、大工さんやあれこれの業者が入ったりしたらそんなことはできない。住宅はむしろ自己を時代の社会性に合わせて形成するための容器なのである。

 いや、そんな講釈はどうでもよい。小屋づくりにはもっともっとたくさんのおもしろさとテーマがある。今では家庭菜園を楽しむ人は多いし、マイカーも普通だ。それと同じようにマイ小屋というのを皆もったらいいと思う。山のそこここに。土地はいくらでも捨てられているのだから。世界が変わってくるかもしれません。(土地は捨てられているとはいえ、勝手に小屋を建てると不法になります。是非、当開拓地を御利用ください。有料ですが。)

 トランプ氏はボクと同じ年齢で(?)就任演説を楽しみにしていた。同時代を生きてきた訳だし。こわいもの見たさで。とにかく世界は変わりそうだから。リアルタイムでは聞けなくて、新聞で読んだ。読んだが半分くらいでやめてしまった。おもしろくもなんともないのである。トランプさんもディールディールとばかり言っていないで山に入り無心に小屋づくりをすればいいと思う。そしたらもう少しモノ言いも変わってくるはずだ。彼が嫌いな(?)アジアではそのトシになったら山に入り竹林に遊ぶというのが賢者のとる道だといわれている。わからないだろうなぁ。 
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by kurashilabo | 2017-01-29 10:55 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170121

 超ローカルで恐縮だが、前回の地名の話を続けると、開拓地の谷津田入口あたりに「カママエ」という小字がある。カマはえぐられたような崩れ易い地形をいうが、おそらく鎌や釜のフォルムにも共通するイメージなのだろう。(ちなみに山梨に釜無し川という川があるが、この釜もえぐられたような地形、つまり淵のない川という意味らしい。)「カママエ」には確かに大きくえぐられた崖状地形がある。どうみても自然地形ではないし、昨今土砂を採掘した訳でもなさそうなので気になっていた場所だ。ボクの考えでは遠い昔、田を造成する時に土をとった跡だ。田は畑と違って地面を水平に作る必要があるので、多かれ少なかれ土木工事が必要となる。田は今は水平になっていても、もともと水平な地形などどこにもない。

 興味深いのはその崖の下で9世紀初頭の須恵器(すえき)を焼く窯が8つ発見されていることだ。今でもそこを歩くと須恵器の破片をいくつも拾うことができる。もしそれらの須恵器窯が土を採ったあとに作られているのであれば、田を造ったのはそれ以前ということになる。そこがおもしろいのである。田がいつ造られたかなど、記録に残ることなどまずないので、もしそうであるならそれが推測できる貴重な例といえる。むろんこれは推測の二階屋のような話だがボクはそう思っている。

 ところでどうしてその場所に須恵器窯が造られたのであろうか。風向が良かったのだろうか、近くに良質の粘土が出たのだろうか。いろいろな想像がひろがる。近くには工人の集落があったはずであるし、当然そこから地域全体につながる道があったし、粘土の産出もあったし、焼くためには大量の薪を使うので近くの山はまる裸か松山になっていたはずだ。(山に松林が多いのは薪をとったり落葉をかいたりすると土が痩せて松しか育たなくなるからといわれている)細部は分からないが、奈良平安の時代からこのあたりには多様な人がうごめき、窯から煙が立ち上っていたことだけは確かなのである。

 ボクたちが米を作っているのはこの谷津田の真ん中あたりだが、実はここにも同様の地形がある。沢の西側の斜面が一部えぐられていて、これも自然地形とは考えにくい。二階建ての家の屋根くらいの高さの崖が40メートル位続いている。これもおそらく田を造る時、土を採った跡だ。そこには今はヒノキが植えられ、これはありがたくないことだが「昔ちょっとだけ植えた」モーソー竹が他を圧して繁茂している。確かに竹のおかげで崖の崩れは起きないとはいえ、その日影になって一帯は暗くなってしまっている。モーソー竹やマダケは本当に強い。一旦繁りだすと生態的に優勢樹種となってしまい、他の樹種を枯らしてしまう。密生するし、背は高いし、さしものクズやフジも彼らにはかなわない。木はどんな木であれ1年、2年と月日を重ねて大きくなる。ところが竹は1年で、スギが20年かけて届く高さまで育ってしまう。木は竹にかなわないのである。
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 ここ数日、農場の人海戦術でその竹をバッサバッサと切り倒している。(切るのは楽だがあとの処理が大仕事)一気に視界が開け、明るくなる。爽快だ。竹は利用すれば色々なことに使え、切り倒して積んで腐らせるだけではもったいないが、量が多すぎてともかく一旦皆伐したいのである。来年また生えてくるので、そこで残すべきものは残すということになるだろう。

 どんな土地にも遠い昔からのいろいろな物語が刻まれている。それを読み取っていくというのも開
拓のひとつの楽しみである。
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by kurashilabo | 2017-01-22 10:44 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170114

 『八郷町の地名』という旧八郷町教育委員会が12年程前に発行した冊子をながめていたのだが、郷土史ファンとしてはこれがなかなか面白かった。むろん興味あるところの拾い読みだけれども。 地名といってもここで話題にしているのはいわゆる「小字」だ。大字は近世の旧村に由来するもので八郷地区には53ほどある(山根53ケ村)。ちなみにその旧村が明治22年の町村制施行で8ケ村にまとめられ(ほぼ小学校の学区に対応している)、昭和29年の町村合併で八郷町となり、その八郷が平成の大合併で消えて石岡市となり八郷という名称は公的には消滅した。現在ここの表記は石岡市柿岡1297で、石岡市のすぐ次に大字(近世の旧村名)がくる。
 そういう大字に対して小字はごく身近で狭い地名で、大字の中に小字は百以上あるのが普通だ。その分小字にはその土地に生きて来た人たちがそこをどういう場所として意識していたのか、その痕跡が残されていて興味深い。時にはクリアに、時にはおぼろげに。むろん意味不明も多いし、区画整理などで消えてしまった地名も多いのだけれども。

 「開拓地」の田のあるところは「ヒゴシイリ(日越入)」というが、ヒゴシとは谷の間で狭くなっているところ(の道)というような意味らしい。その入口ということである。実際、そこから先は次第に谷は狭くなっていき、道は両側に険しい山の迫る沢沿いの細道となる。その細道が(この道は現在ほとんど消えている)筑波山の急斜面に入るところを「テバイ」という。「手這い」であり、手で這い上るほどの急坂ということである。この道で筑波山を越えると筑波山神社周辺に至り、中世までは重要な道だったようである。

 県域で中世最後の合戦となった「手這坂の合戦」はこのあたりで戦われ、二千とも三千ともいわれる兵が入り乱れての戦だったという。戦国の終わりごろのことだが、現在の八郷側の国人(こくじん。小幡氏 片野氏等)は水戸から県北を地盤とする戦国大名佐竹氏に組しており、筑波山の向こう側(現つくば市や桜川市)は小田氏の根拠地だった(織田信長の織田氏とは無関係)。この合戦で敗れた小田氏はこれを機に衰退し、県域はほぼ50万石とも80万石ともいわれる佐竹氏の領国となる。そのような意味で、地域史的には重要な合戦だったのである。周辺には長峰砦だけでなく「イッセンバ(一戦場)」とか「前棚(砦の前の平坦になった場所)」といった合戦と関係する地名もいくつか確認できる。

 ところで田の所有者は近くの「十三塚」集落の人が多いのだが、この地名も何か意味ありげで気がかりだった。しかし『八郷町の地名』によれば十三塚という小字は他にもいくつかあり(農場の裏の方にもある)ごく普通の地名でどうも村境と関係あるらしい。言われてみれば十三塚集落は小幡村の(筑波山に抜ける道の)村境に位置している。村のはずれなのである。現在では村境(近世旧村の)を意識する人など誰もいない。しかし近世までは日々の暮らしはムラ内でほぼ完結していていて村境はムラにとっては国境のようなもので、その向こう側はいわば他国だった。そういう場所として悪霊が入ってくるのを防ぐための呪術が行われたり、子どもが生まれた時の胎盤を村境の辻に埋めたりという習俗があったと聞いたことがある。村境は常に意識され警戒されている場所だったのだ。そこをどうして「十三塚」と呼ぶのかは残念ながらもうわからない。何かしら呪術的な意味があるのだろう。

 当の十三塚集落には、その名前の由来として「大ネズミと12匹の猫(?)」の伝説が残されているが、この話は十三塚という地名の本当の意味が人々から失われた後、子どもにおもしろおかしく語って聞かせるための「お話し」の類として聞いておけばよいであろう。 
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by kurashilabo | 2017-01-15 10:42 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170107

 明けましておめでとうございます。本年もどうぞやさと農場をよろしく。

 昨年は正月早々入院でしたが今年は幸いにも家(山梨)でのんびりと過すことができました。暮れにはアーだコーだと一人突っ込みを入れながらついつい紅白歌合戦をみて、元日にはお雑煮とおせちをつついて全く平均的な日本人でありました。子供たち(もう子供ではありませんが)も皆帰省し、めずらしく家族全員が揃ったので記念写真をカシャ。あとは何もすることがなく無く、子供も独立してそれぞれ仕事をもてば特段の共通話題もないし、初詣という気分でもないので子供たちとその母親はイオンモールに初詣に行って日本資本主義に貢献し、小生は買いたいものが何も無かったので一人ファミレスで読みかけの小説を読むというどうしようもない父親ではありました。家族でのんびりというのも楽ではないのです。結婚(式)とか孫がどうのという話が出たらどうしようと恐れていましたが、幸いにもそんな話しはカケラも出ず今年もよいスタートとなりました。(いや、出てもいいのにカケラも出なかったというのは意図的に避けているということか…。)

 ところで小生、昨年あたりから字がボヤけて新聞なども読みづらくどうも老眼になったらしい。最初は車を運転していて遠くが意外とクリアーに見えるので、「オッ、ウコンはすげぇ、近眼が治ってきてる」などと喜んだのですが、新聞がボヤけて読みづらくなっていることに気付き「ひょっとしてこれ老眼?」と老眼鏡を借りて掛けてみるとびっくりするほどクリアー。いやはやついに老眼か。もともと読書家ではないがそんなこともあって活字離れが進み、最近は時間があればDVDをながめるばかり。

 しかし新聞で「土の記」(高村薫)の書評を読み、これは読まずばなるまいと正月の時間つぶし用に買い求めたのでした。高村薫は初期の「マークスの山」がとてもおもしろかったので、その後も新刊が出ると手にとるのですが、以後は緻密さと粘着力が増していくばかりで「照柿」はどうにも感情移入ができず、「太陽を曳く馬」など読み通すのが苦痛でさえありました。今回の「土の記」は文体に慣れるまでは疲れましたが慣れたらサクサクと読めるようになりました(まだ途中ですが。)

 しかし正直言って一般の人がこれを読んでどうおもしろがることができるだろうという要らぬ心配をしてしまいます。どこまでいっても何か事件や情事が起る訳でもなく、山間の棚田を作る男の心に去来する山の声、生き物の声、土の手ざわり、死者たちとの会話、ムラの風景などが延々と続いていく。男はもとシャープに勤めていた理系で、すでに70代になる男(山間の旧家にムコ入りし、妻は不可思議な事故で死んでいるという設定)であるとはいえ、「幼穂の二次枝梗原基が顔を覗かせてから二日後の七月三十一日、予定通り穂先が0.5ミリほど膨らんで穎花原基の分化が始まった。集落の棚田では一回目の穂肥を施す日が八月三日、もしくは四日といったところでほぼ揃い・・・」といった具合で、知っていればついていけるし笑えるが、知らなければ何のことやらという農事やムラの日常の記述が続く。

 小説としての良し悪しなど全く分かりませんが、考えてみると農事そのものやムラの暮しをその内部から記述しようとした小説は未だかって無かったのではなかろうか。近代的自我が捨て去ってくる背景として描かれるばかりで。それは人々の心が田園や山里、土に向かっている現代という時代と高村薫という小説家にしてはじめて為し得た偉業といえるのかもしれません。
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by kurashilabo | 2017-01-08 10:40 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)