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ふみきコラム20170722

 開拓地の草刈をしていてふと気付くと、春に植えた柿の木がひとつ芽吹いていた。近所の友人が「もらったから植えないか」と持ってきたものである。3本ばかりもらってはみたものの、根に土は全くついておらず、細根もほとんど無いので難しいかなと思ったが開拓地の一角に植えておいた。植える時に十分な水をやったもののその後先日の台風による大雨が降るまで全くのカラ梅雨だったのでほとんどあきらめていたのである。(残りの2本はやはり枯れたようだ。)台風の雨で生気を得たのであろう、その芽吹きを見ていたら訳もなく気分が良くなってきた。この暑さ、アブやブヨ、部屋に帰ればノミやGに悩まされ総じて不快で鬱な日々なのでこういうのは嬉しい。

 5月から6月にかけて田植えした稲も力強く分けつし、ぐんぐん育っている。(強湿田で、田植え前の荒起こしや代掻きができず、そのまま田植えしたところはやはり草に敗けていて育ちが弱く、色も出ない。)先日は農場総出で草取りをした。コナギ、イボクサ、ミゾソバなど手取りし畔に投げ、また泥に埋め込んでいく。暑い最中のこうした除草はやはり若い人でないとできない。小生は幸いにも高齢者といわれる人種になり、腰も痛いので手取り除草は免除してもらっている。それに代わってポツポツバラバラと生えるコナギを歩きながら棒で泥に埋め込むという除草法を開発した。足許のコナギは足で埋め込み、少し離れたところコナギは2メートルほどの竹の棒で埋め込んでゆく。これで8列くらいを除草できるので案外効率が良い。腰を曲げないですむし、稲の葉で顔や肌を刺すこともないので多少楽だ。(ただしこれはある程度育ったコナギにしか対応できない。)来年のことを考え、コナギは少しでも密度を下げておきたいのである。
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 暑い夏は緑の軍団が旺盛を極め、人間は基本、防戦だ。きれいにしたはずのところもたちまち草やツルに埋もれ、刈り倒した竹のあとは切っても切っても次から次へと新しい竹が生えてくる。彼らは休むということがない。一方人間はどうしても作業量は減る。緑の軍団を前にすればとりわけ高齢者の作業量などわずかなものだ。草刈り機や重機がなければほとんど無力といってもよい。夏は嫌いだが稲を育てる力もまたその暑い夏であるのだから、稲と共生してきたモンスーンアジアの民としてはこの暑さを受入れ、感謝しなくてはならないだろう。

 暑気を払うには何といっても「川床」が一番だ。昨年は橋の下に作ってアブの飛来に悩まされたので今年は場所を変えた。沢の奥の幅がやや広くなったところで、沢の中、水上20センチに床を作り昼寝している。沢の中なのでアリなど虫は来ないし、暗いのでアブも来ない。時々ヤブ蚊がくるがこれは蚊取り線香1本で防ぐことができる。ゴロリと横になって上を仰げば、イヌシデの大木が枝葉を広げ、そこにツタがへばり付いて葉を広げ、更にヤマフジの大木がからみついて葉を広げている。緑のドームである。東側はシノ竹が日を遮って暗い。川面を流れる風が涼を運んでくる。夜ならば不気味で立ち入れないが昼間は存外明るくて何の危険もない。昼はイノシシもやってこないし。横になって沢音だけに心を集中していると暑気が引くとともにウツラウツラと寝てしまう。昼間セカセカと働いている人には「申し訳ないけど気分がいい」。夏は思考がどんどん即物的、肌感覚的になっていく。 S

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by kurashilabo | 2017-07-23 10:07 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170701『憲法改正の真実』(集英社新書)を読んで

c0177665_09575312.jpg 憲法学者の樋口陽一氏と小林節氏の対論『憲法改正の真実』(集英社新書2016,3月)はいろいろ教えられることが多かった。自民党の改憲案の批判なのだが一昨年の「安保法制」の成立を受けての対論なので闘争宣言のような趣がある。
 その中で樋口氏が「国防軍を憲法に明記するならばそれは徴兵制であるべき」と言っていて、今まで気付かなかった論点なので考えさせられた。論旨は単純明快で、「…もし新しい軍隊を作るとしたら、何を考えるべきか。それは今度こそ国民主権の論理で軍を作らなくてはいけないということです。」「国民が国民投票によって、国防軍をつくることを是とするならば、それはあなた自身、主権者として、ある種の分担をすることを覚悟してくださいね、という話しですね。(小林節)」

 全く正論で、そこを考えていてボクはやっと、安倍が「憲法に自衛隊を明記する」改憲案を出してきた深謀遠慮が理解できた気がする。別に安倍が徴兵制をもくろんでいると言いたい訳ではない。憲法に自衛隊という言葉が入るか入らないか、それによって自衛隊の性格も、国の形も、人々の心の中も、天と地ほど変わるのだ。
 安倍が「憲法9条の2項をそのままにそこに自衛隊の役割と意義を明記する」と表明した時、ボクはその意味がよく飲み込めなかった。それでは9条はほとんど意味不明な条文となってしまう。第1項は「・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇 又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というもので、2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」としている。これだけクリアーな文言のあとにどのように自衛隊を押し込むのか?誰がどう見ても陸海空軍そのものである自衛隊を。現憲法は誰にもわかり易く、誤解の無いように実にクリアーに書かれている。美しいと言ってもいいくらいだ。それがここだけがグチャグチャで意味不明になる。
 そんなアクロバティックな手法をもってしてまでどうして安倍は「自衛隊」の明記に執着するのだろう。集団的自衛権を認め、安保法制が成立してすでに「解釈改憲」は完成している。自衛隊は米軍の二軍として「地球の裏側まで行って」戦争することができる。実務的にはそれで十分なはずなのに。

 また「自衛隊は軍隊としてすでに存在し、大多数の国民の支持を受けている。であるならば憲法にその役割と制限を明記した方がいい」という意見もある。「現にあるものを書き加えるだけ」と言ったこの手の論法は、憲法に書かれることで自衛隊の性格は天と地ほど変わるということを無意識にか意図的にか見落としている。
 現憲法はすべて「日本国民は」という主語で書かれている。国民主権である。そこに自衛隊を明記するということは国民各自が自衛隊(国防)に義務と権利を負うということだ。いざという時には銃をとって戦線に赴くという内心の決意を求められると言ってもよい。国民主権の軍事とはそういうことである。志願制でいくか徴兵制でいくかはその次の議論だ。少なくとも「自衛隊の明記はいいが、自分はそれに無関係」という立場はない。
 憲法に記されていない現在の自衛隊は、たとえどんなに多数の支持を得ていようと、時の行政(権力)がその必要性を判断し設置した組織であり、他の行政サービスと原理は変わらない。行政が人(兵士)を雇用しているのであるから徴兵制はありえないし(人さらいになってしまう)国民一人一人が「いざという時には戦線へ」という決意を求められることもない。
 憲法に自衛隊を明記というのは自衛隊(国防)を自分の精神の内に書き込むということであり、この精神の改造こそが安倍の目論むところなのであろう。ボクはこれまで自分が銃をとって戦争にいく可能性をゼロとして人生を送ってきた。頭の片隅にもなかった。自覚していなかったが、それは憲法9条によって可能となった精神のありようなのだ。そのような「戦後精神」ではダメだというのである。

 若い人やこれから生まれてくる人はもっとずっとシビアな国際環境を生きていくことになるだろう。自分の子どもや孫が「戦争(自衛隊)に行く」と言い出した時、「それはやめておけ」と言える正当な論拠をわれわれは失うことになる。「だって、ボクらの憲法に書いてあるじゃないか、非国民!」  S


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by kurashilabo | 2017-07-02 09:55 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170624

 ポスト3.11の社会で評価を高め、存在感を増し、前景化してきたものに自衛隊と天皇がある。自衛隊と天皇は戦後社会にあってずっとモヤモヤしていて必ずしもスッキリと市民権を得ていた訳ではない。正々堂々と表に出てきてもらっては困るというか、そういう空気の中にあった。

 憲法世代として言えば9条を素直に読む限り自衛隊は憲法違反の疑いが常にあったし、反軍事的気分もあって認めたくないものだった。しかし本当に自衛隊に反対かというと(戦争経験をしていないということもあり)専守防衛で抑制的なものであるならば、と受入れていたような気もする。いずれにせよ徴兵制もないし自分にとって切迫した問題ではなかった。

 天皇(制)も同じで、先の太平洋戦争は少なくとも形式的には天皇のことばで始まり、天皇のことばで終わっているのだし、兵士たちは皆、天皇の赤子として戦い、死んでいったのだから天皇に戦争責任が無いはずがない。しかし昭和天皇はそれを語らなかったし、むしろアメリカ(マッカーサー)にすり寄ることで「象徴」などというものに納まって生きのびた。マッカーサーはマッカーサーで米ソ対立の行方を見定めつつ日本統治の道具として利用するという戦略をとった。その不純な合作が戦後の象徴天皇制だ。しかしそうは言っても戦後世代としては天皇に生身の恨みがある訳ではなく、いつの間にかそんなものとして受け入れてきてしまったと思う。

 自衛隊についても天皇に関しても本気で考え、クリアにAかBか判断することはせず、モヤモヤしたものとして棚上げしてきた気がする。社会全体としてもおそらく同じで、そこを突っ込めは社会に深い亀裂を生むことはわかっているので「大人の智恵」として(?)曖昧モコのまま据え置いてきたのではなかろうか。それは自民党が憲法改正を党是としながらも、また、これだけ長い期間政権与党の座にあったにも関わらず、本気では改憲を政治スケジュールに乗せなかったことによく表れている。国会で3分の2が無かったことにもよるが、それだけではないはずだ。

 それが「戦後」だったとも言えるし、それでやってこれた社会情勢、国際情勢だったともいえる。今にして思えば稀有な時代ではあった。経済は常に右肩上がりで、社会はどんどん豊かになり、世界には「冷戦構造」という骨組みがあって、戦争は絶え間なくあったが、日本に直接弾は飛んでこなかった。アジアで唯一最も成功している国。

 しかし今はそのどれもが無い。とりわけ東アジアの地勢学は中国の台頭によって根本的に変わった。国内的には震災を契機に社会の「空気」が変わり、そして「安倍」の登場で政治が変わりつつある。もはや自衛隊も天皇もモヤモヤとしたままでは済まされなくなった。AかBか判断を迫られている。

 自衛隊について言えば言うまでもなく安倍がそれをテーマに改憲すると宣言したからだ。天皇については「退位」をめぐる動きがその実、天皇をこの社会の中でどう位置づけるのかという議論をはらんでいるからである。
 
 これはひとつの政策の問題ではない。日本社会の深部に触れるテーマであり、右も左も関係なく入り乱れながら、これからの日本の基本性格を決めていく政治となるだろう。政治がこれほど身に迫ってきたことはかって無い。 S

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by kurashilabo | 2017-06-25 17:03 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170617

 「共謀罪」が成立するようである。新聞を開くたびに暗澹たる気分になる。270余の犯罪を共謀した段階で検挙できるようにするものだが、それがどんな社会を招くか普通の頭なら誰でも想像がつく。共謀罪があるということは共謀した段階で検挙できなければそれは警察官の失点となる。それ故職務熱心な警察官ほど「共謀」を察知しようとするだろう。共謀を察知する方法は世界各国どこも同じで通信傍受(盗聴等)、監視、密告の奨励である。 

 これからは何か行動を起こそうと思い立ったら盗聴や監視を意識し、隣人の密告に気を付けなければならない。軽々に口にしてはならない。そのような社会になっていく。「これはテロ等のためのもので一般の人は対象にはならない」と現政権は言うだろう。百歩譲ってそれを真に受けたとしても現政権は10年先にはそこにはいない。政権が変わり、安保環境がよりシビアになり、社会が緊迫してくればこんな「使い勝手のいい」法律を権力が利用しないはずがない。

 10年経ち20年経てばそのマインドは必ず社会に浸透していく。私たちは北朝鮮や中国の社会を、「権力が常に人民を監視している」「隣人同士が監視しあう」いやな社会だと嘲笑ってきた。映画『善き人のためのソナタ』を見て「旧東ドイツ」の人民監視のひどさを知り、解放されてよかったねと思う。一体何が悲しくてこの日本をそんな社会に戻そうとするのだろう。

 そもそも共謀罪がなぜ必要なのか。そこさえわからない。直近の十年程度を考えてみても、共謀罪が無かったために防げなかった重大なテロ攻撃あるいは組織犯罪があっただろうか。無い。イスラム過激派のテロも幸いにも起きていない。中国はむろんのこと北朝鮮も日本をテロ攻撃しようとしているとは現況では思えない。今の社会情勢で「テロ等準備」罪の必要性がわからない。必要性さえわからない法律のために失うものの大きさを思うと「ステューピッド」と口走りたくなる。

 国内的に必要性の薄いこの法律をここまで強引に成立させようとしているのをみると「ひょっとして これもアメリカの意向かな」と思えてくる。先の「秘密保護法」などと同じように。安倍は復古主義、ナショナリストの顔をして日本を軍事的にも経済的にもアメリカの属州たらしめようとしているから。尖閣防衛などと引き換えにこうした法律の成立を約束してきているのかもしれない。

 そんな安倍が今なお、国民の半数の支持を受け、国会では3分の2以上の勢力を保持している。戦後の政治を振り返ってもこういうことはなかった。その心理と論理を推測すればやはり「安全保障環境の悪化」ということになるのだろう。習近平の中国、プーチンのロシア、金正恩の北朝鮮、ドウテルテのフィリピン、よくもまぁひどい面々がそろったものだ。そしてトランプのアメリカ、いつもやっかいな韓国。こうした地勢学的環境を考えればやはり自民党、強面な安倍でということになのだろう。
 とりわけ台頭する中国に対する「怯え」がある気がする。中国が現在のような軍事的経済的政治的な強国化を進めていけば早晩日本を見下すようになり、アメリカ(+日本+韓国)と正面で雌雄を決する時がくる。(これについては『米中もし戦わば』ピーター・ナヴァロ・著が参考になる。但し、ナヴァロ氏はトランプ大統領の補佐官である。) 日本の多くの人々はなんとなく肌でそれを感じ取り、中国との歴史的に形成された複雑な感情をひきずり、その怯えが安倍政権を支持するという形になっているのだろう。他に選択肢が無いではないか。

 中国がこれからどうなっていくかはわからない。あまりに速く成長し、あまりに深い矛盾を抱え、あまりに大きな図体で、今後明るい中国があるとは思えない。しかし安全保障を考えるならば現在の「偉大なる中華民族の復興」というナショナリズムが続くことを前提としなければならない。だとすれば日米同盟を強化し、安倍で…そんなところではなかろうか。
 しかし対中国、対北朝鮮をやっているうちに、いつの間にか自分が同じ体質になっていたとすれば、笑い話では済まないぜ。よくあることだけど。 S
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by kurashilabo | 2017-06-18 09:15 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム~不便益追求型稲作の意義?

 開拓地の田んぼも次の土・日いよいよ田植えである。農場周辺の田はもうほとんど田植えは終わり、田植え時特有の喧噪も去り、早苗が風になびいている。そんな田を横目にみながら開拓地に向かうのだが、ついつい「開拓地の19枚の田を合わせてもこの一枚の田にもならないなぁ」などと自嘲してしまうこともしばしば。

「なんでこんなバカなことやってるんだろう、いいトシして」。

 むろんあえてする不便、非効率の稲作なのは分かっているし、とりわけ開拓地は「田を造成する」という日本史の根底にある経験の復習もしているから時間も手間もかかる。しかしそういう不便、非効率をなぜするかを人に説明しようとすると意外と難しい。「われわれのはアソビですから」と言ってもわかるのはわかっている人だけだ。近代農法の抱える諸問題の批判、そのアンチという説明はわかり易いがそれは表層的なことに留まる。

 17日の朝日新聞の「耕論」は「世の中、便利すぎ?」というタイトルで3人の識者の意見を載せていたが川上浩司氏(京都大学デザイン学ユニット特定教授…何コレ?)の見解が勉強になった。彼は不便がもたらす便益を「不便益」と名付けて研究しているそうで、「・・・考察から得た結論は『主体性が持てる』『工夫できる』『発見できる』『対象系を理解できる』『俺だけ感がある』『安心できる・信頼できる』『能力低下を防ぐ』『上達できる』不便益は、この八つのどれかに結びつく。手間がかかり頭を使うことから(たぶん身体も)、逆に多くのものを得られると言いたいのです」と述べている。

 もうこれで必要にして十分な気がする。ボクらはあえてする非効率な稲作で「作ることに主体性を取り戻し」「あれこれ工夫したり考えることで山、田、水、土、動植物という対象系をトータルに理解し」「頭と体を刺激して能力低下を防ぎ」「安心、安全の米と生活環境を作り」「俺という自尊を得る」ことができる。機械化一貫の、コックをひねれば水が出る広い圃場整備された田の稲作は、効率と引き替えにそれらすべてが希薄になっている。米作り工場だ。何の面白味も学びもない。(栃木の上野さんはそういう田をおもしろく使いこなしているところがすごい)

 効率一辺倒の普通の稲作と不便益追求型稲作は同じ稲作でも全然違う。その違いは見かけよりずっと深い文明史的なものだ。話を広げると自然農法とか有機農業は一般に不便益追求型農業で(効率一辺倒の有機農業もある)、いわゆる新規就農を希望する人の多くはこちら派だ。行政には新規就農者を新しい農業の担い手としてサポートすべきという意見が多いが、何か勘違いしている気がする。彼らは行政が期待するような農業の担い手にはならない。

 それはさておき、「耕論」にはもう一人の識者としてセブンイレブンジャパンの古谷一樹氏も登場し「私たちにはまだまだ提供すべきものがある。もっともっと便利に進化しなくてはなりません。」と言っていてこれも面白かった。そこで「あ、そうだったのか」と今更気づいたのはセブンが東京豊洲に1号店を開いたのが1974年だそうで、これは「たまごの会」がここに農場を開いたのと同じ年だ。その頃、今に続く新しい時代が始まっていたのであり、それぞれ別の立場とスタイルで時代と向き合ってきたのだろう。セブンはこれからの「超高齢化社会」に向けて「誰も買い物難民にならず、朝起きてから夜寝るまでに必要なものが近くの店で買える」という「今の社会の要請」に応えていくという。わが(不便益追求型)農場は今の時代のどんな要請に向き合っていこうとしているのか戦略的思考が欠如しているのではないか。

 セブンでは「いれたてコーヒー」の提供に5年かけたという。セブンではないがボクは毎日通り道にある「セイコーマート」で「いれたてコーヒー」一杯を飲み、それから「開拓地」という名の「不便益ワールド」に向かう。つらつら考えてみるに、これはかなり先端的なライフスタイルではなかろうか? それにコンビニコーヒーは(農場で自分がいれるコーヒーより)うまい。 S
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by kurashilabo | 2017-05-24 16:46 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170422~安倍昭恵という難題

 「(教育勅語を朝礼で唱えさせるのも)教育基本法に違反しない限り問題ない」政府高官(文部副大臣義家某)がこう言うのだからびっくりである。びっくりというより理解不能。夫婦はむつまじく、兄弟は助け合い、父母を敬へ、忠君愛国、一朝事あらば一命を国(天皇)に捧げよ。減私奉公。教育勅語はそんな内容だったはずだ。その教育を受けた若者たちが先の大戦で「天皇陛下万歳」と叫んで大勢死んだ。今の教育基本法はその痛切なる反省、教育勅語的教育の否定として成立している。そう思っていた。「教育基本法に反しない限り」なんて意味不明で、教育勅語自体がその精神に違反している。そのはずだ。

 さて、今や時の人、安倍昭恵氏である。彼女は教育勅語を園児に暗唱させているくだんの「森友学園」(保育園)で父母を前に何度か講演し、その教育精神を称えている。そしてその精神に基づいて新しく建設され(るはずだった)小学校の名誉校長についた。新聞報道等からみると、「不本意にも名前を使われた」のではなく「賛同していた」のは間違いなさそうである。

 昭恵氏は反原発、有機農業、スピリチュアル等々われわれに近いセンスの持ち主なので、農場周辺の人たちの中にも彼女に好意的な人は少なくない。第2次安倍内閣成立以前のことだが、どこぞの環境系のBARで飲んだくれた昭恵氏にあったことがある人もおり、そのざっくばらんなフツ―の感じが好感を持たせてもいるのだろう。ボクもその人となりに興味があった。

 その昭恵氏が森友学園がらみで時の人となり、オヤオヤどうしたことかと思っていたのである。これも新聞の拾い読みだが彼女はあるインタビューで「宗教はどちらかといえば神道で…」「…私は日本精神が世界をリードしなければ“地球は滅びる”と本気で思っているんです。」と語っているそうだ。それを聞いてボクはかなりスッキリと「安倍昭恵という問題」がわかった気がした。そしてこれは難題だなぁということも。

 彼女の言う「日本精神」が何なのかこれだけではわからないが、「…が世界をリードしなければ“地球は滅びる”と本気で思っている」という下りを聞いて即「ああそうか、これは八紘一宇の個人版現代版だな」と思ったのである。古い人は良く知っているはずだが八紘一宇とは戦前の日本が大東亜共栄圏をスローガンにアジア侵略をした時、そのバックボーンとなった思想だ。世界が民族や宗教や国家を越えて一つの家となり、王道楽土を築く。日本にはそのための特別な使命があり、天皇は世界の盟主となる。そんな内容だ。日蓮主義者にして天皇主義者の田中智学が発案し、宮沢賢治や石原莞爾など多くの人を引きつけた。夜郎自大な、などと笑ってはいけない。当時、世を憂う多くの人々がその理想主義にもっていかれ、八紘一宇は大日本帝国のスローガンにまでなった。

 八紘一宇は当時の時代状況における「日本精神で世界をリードし、統一しなければ地上から戦争や飢餓、貧困等々は無くならない」という思想だ。当然ながらそこには一神教をベースにもつ西欧近代化では世界は良くならないという含意がある。近代の超克だ。昭恵氏もおそらくそう考えている。ただ、田中智学の八紘一宇は日蓮主義、天皇主義を柱にしているが、「宗教はどちらかといえば神道」という発言から推測すれば昭恵氏の言う日本精神とは自然をカミとしてあがめ、それとうまく共存してきた伝統的な農本精神や共同体志向のようなものではないかと思う。彼女の反原発や有機農業、スピリチュアルもそこに根拠を持っている。

 こうしてみると彼女がいかにわれわれに近いか、いやほとんど同じだということに気付くだろう。彼女の中ではそれが教育勅語に直結している。そこが「困ったサン」なのであり、われわれにとっての難題なのである。(続く、かな?) S
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by kurashilabo | 2017-04-23 10:36 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170408

 春はせわしない。田んぼの種まき(苗代づくり)を数日中にやらなくてはならないのにその田んぼの整備がまだ途中。春がどんどん追いかけてくる。勝手に「十三塚谷戸農園」と名付けた開拓地で一人、重機(パワーシャベル)を友として圃場整備に奮闘中。

 先に大量に切り出した竹(孟宗と真竹)を使って暗渠排水を作っているのだ。重機で幅50センチ、深さ80センチほどのトレンチを堀り、沢山の竹を伏せ込みそれを網で包む(使い古しの霜除け資材の活用)。これは泥が中に入りこまないためだ。その上に土を戻し押し固めていく。要はそれだけだが何やかんやで200メートル位つくらなければならない。要所要所にはパイプを埋め込み(100ミリVU管)止水、排水装置も必要となる。

 昨日は夕方、短時間ではあるが雷雨があり、田はドロドロ、長靴は重く、重機は滑り、腰も痛みだす。やることも理屈もわかっているが、だからといってサクサクと事が進む訳ではない。しかしやった分だけは形になっていき、それが嬉しい。土木工事は好きだ。夜はすぐに眠くなり、次の日の作業の段取りを考えているうちに寝てしまう。わかり易い日々。「リア充」というべきか、いやそもそもが「妄充」か。
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 数日前、同じ小幡(オバタ)地区内のオートキャンプ場で集団自殺があった。30代40代の首都圏の男と女4人が車の中で練炭をたき、一酸化炭素中毒で死んだ。一昨年のやはり春爛漫の今頃、近くの林道で3人が死んでいたことがあった。このあたりはそのような人たちを引きつける何かがあるのだろうか。筑波山の霊力のようなものか。

 「木の芽時」は人の心が乱れるという。冬が終わり、体も心も春夏へ向けてモードを変換しようとするのだろう。社会的にも移動が多く、人も場所もシャッフルされて不安定となる。自分とは無関係と思ってしまえばそれだけだが、社会の底に開いた虚無の穴のようで自分の中で納まりが悪い。親兄弟もいるだろうに。
 ところが社会の中堅であってもおかしくない成人男女が4人消えたというのに全国紙には1行の記事もなく、地方版に1段のベタ記事が出ただけ。一応お知らせしましたというだけの。新聞的にはあまり騒ぐべきではない事件であろうし、遺族もまたそれを望まないのはわかる。オートキャンプ場だってあまり騒がれたら困るだろう。それもわかる。しかし・・・・。そろって何事も無かったかのようにする態度は何だ。今日、午前中の気持ちの良い時間帯にそのオートキャンプ場に行ってみた。そこはよく整備された公営のキャンプ場で、公園のようなキャンプサイトには平日だというのに多くの子連れの家族がテントを開いていた。(まだ春休み中だったのか)バトミントンをやったり、それは平和そのもので、集団自殺が3日前にあったなんてウソのようでさえあった。

 集団自殺の心理などボクには全くわからない。しかしそんな選択肢が許されるなら何をやっても無意味な気さえする。極北のジョーカーではないか。そうか、皆その虚無の穴に連れ込まれないように見なかったことにしているのか。 S 
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by kurashilabo | 2017-04-09 15:20 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170325

 霞ヶ浦の南岸沿い、町村でいうと牛久市(東部)、美浦村、稲敷市、河内町あたりは首都圏に近いにもかかわらず長らく開発が遅れてきた地帯である。土浦以南の常磐線沿線は通勤圏としてベッドタウン化しているし、総武本線(成田線)沿線の千葉市から成田エリアもよく栄えている。しかし霞ヶ浦と利根川に挟まれたその一帯は交通の便が悪く、また名所旧跡も無いためだろうか発展にとり残されてきた。(江戸時代以前は香取内海カトリノウミと呼ばれた浅海がひろがっていた地帯だ。

 先日、先に開通した圏央道を「つくば牛久インター」から成田方面に行く機会があった。高架の道路からながめるその一帯の田畑や山(低地林)の荒廃が今更ながら印象深かった。かっては浅海だった広大な水田地帯以外はほとんど耕作放棄地だ。耕作放棄地が多いというよりもむしろ地域が全体として放棄地化し、虫喰い状に使われているところがあると言った方がいいくらいである。谷津田は草に埋もれ、低地林は倒木が多くツルがからみ、竹が野放図に勢力を拡大している。そして日本全国どこでも同じだが、そのようなエリアには(土地代が安いからだろう)太陽光パネルばかりが目につく。突然「アウトレット」などという異様な建築物が出現したりする。

 だが、その荒廃を嘆くことはないだろう。それで誰かが困っている訳ではないのだから。放棄地は捨てられた農地ということだが、捨てるには捨てる理由があってのことだ。もう必要が無くなったのである。しかしわかってはいてもその光景は何か胸に迫るものがあり、物思いに誘われた。かっては(と言ってもほんの数十年前までは)そこを骨身を削って耕し、手入れしていた人たちがいたのであり、人々はそこから生み出される物(富)で生きのびてきた。彼らはどこに消えたのか。そのような生き方、人生モデルがかくもた易く忘れられていいものなのか。

 例えば農家のジイさんが死ぬと、遠からぬうち納屋や蔵の大片付けが始まり、ジイさんが後生大事に溜め込んでいた古道具や農機具が粗大ごみとして捨てられる。あれやこれや、あれもこれも。農場にある唐箕(とうみ)や足踏み脱穀機、藁ない機、ハタ織り機、牛馬用スキ、穀物貯蔵缶etc.などはそのような折に持ち込まれた(拾った)ものだ。それらは土と共に生きた人たちの遺物だ。今では当の農家にとって何の役にもたたないガラクタにすぎない(農場ではしばしば活躍する)。だから死んだジイサンの人生と一緒に捨てられる。しかし本当にそれはもはや粗大ごみにすぎないのだろうか。洗濯機の新しい型が出たから古いのは捨てると同じだろうか。

 文明史的にひとつの時代が終わったということはできるだろう。土地に依存して生きる農耕開始以来の長い時代が。都市と工業の時代になったのだと。荒れるにまかされ粗大ごみとなった土地はそのような時代の一つの極相を示しているのだと。それは歴史の必然力で後戻りはできないのだとも。

 しかし本当にそうだろうか。むしろ現代はある種の熱病、あるいは強迫症に罹っているだけではないのか。そもそも都市文明はそれ自体で自足し完結できる文明ではない。人間は身体という自然を生きている以上、地上の生態系(外なる自然)内存在としてしか生きられない。だから死ぬのだ。(都市は原理的に死を受け入れない。)都市から人がボロボロとこぼれ落ちるのは生態系内存在としての人間と現代文明がもはや両立できない段階に入っていることの証左ではなかろうか。茫茫たる耕作放棄地はひとつの「問」のように現代人の前に拡がっている。 S
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by kurashilabo | 2017-03-26 15:16 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170225

 昨日会員で地元在住のS氏がひと抱えのイノシシ肉を持ってきてくれた。彼は狩猟免許をもっていて、ハンター仲間が「くくりワナ」で捕まえたイノシシの解体を手伝い、返礼にいただいたのだそうだ。20kgくらいあるのではないか、大量である。「ウリボウではないが、1年未満の若いイノシシ」だという。農場は今、豚が少なく、出荷すると農場自給分が少ししか残らない。それでこれは嬉しいプレゼントである。野生獣特有の赤く、脂肪の少ない肉だ。試食してみると若いということもあるのだろうが、とても軟らかく、ケモノ臭さも無く大変おいしい。以前にも何度かいただいたが、どれも臭みもなく軟らかい。これには少々驚いている。

 「豚部は止めて狩猟部にしたらどうか」と本気で考えてみた。現在の肉の必要量は月に1頭か2頭、肉量で50kg程度であるからイノシシはやや小さいことを考慮しても月に2頭仕留めれば足りる。(ラードはごく少ないから小さくても肉はそれなりにとれるはず)これは全く可能である。日々のルーティンワークもなくなるし、エサ代、その他経費(年間35万円)もかからない、肉質も農場の黒豚に勝るとも劣らない。(但し野生獣は年によって脂のノリや味に波があるという)処理施設もあるし、いいことずくめではないか。

 猟期が11月から3月15日までというのがネックになるが、「害獣駆除の要請が出て一年中獲っているような状況」もあるという。狩猟免許も「ワナ猟」であればそれほど難しくはないようだ。(大きい声では言えないが農場スタッフのカワちゃんは罠猟免許を持っている。何のために取ったのかは知らない。ちなみに銃の方はとるのも難しいし、管理が大変厳しいようである。)
 イノシシや鹿がここ2~30年で急速に増えていることは先回触れたとおり。それは「狩猟で肉を得る」ことが現実的課題になったということでもある。趣味のキジ猟を別にすれば狩猟などひと昔前までは縄文時代の生業か、東北で「マタギ」と呼ばれるごく少ない伝統的猟師のものだった。それが普通の「里」でも可能になっている。仮にイノシシが現在100万頭位として、生態を上手にコントロールすれば毎年20万頭位は獲ってもいけるだろう。(豚は1千万頭くらい飼われているからそれに比べれば微々たる数だが)

 ここまでは理屈である。肉はありがたいしおいしいが、一方でボクはイノシシが憐れだなという気持ちを抱え込んでいる。ワナは卑怯ではないか。とりわけ「くくりワナ」はケモノ道に仕掛けるもので(昔のトラバサミのように)痛い。またそれで死ぬ訳ではないので、痛さと恐怖で暴れるイノシシを撲るか刺すかして殺すわけである。その恨みのこもった肉だと思うと喉の通りが悪くなる。では豚を屠場で殺すのはいいのかと問うと、これも本当は根深い疑問がある。しかしそれとはまた違う罪の意識のようなもの。

 数日前「開拓地」の近くで犬の散歩をしていたら山際の道のわきの木の枝先に白い札のようなものがぶら下がっているのに気付いた。木の名前でも書いてあるのかと手に取ると「狩猟〇〇〇〇(人名と住所)、番号」などが記されていた。そうかここに罠が仕掛けてあるということか、とイヤな気分になった。(S氏に確かめるとやはりそうだった)こんな近くにあったのか、と正直胸をなで下ろした。少し前まで開拓地では「シロ」を自由に遊ばせていたのである。姿が見えなくなると交通事故もさることながらワナにかかったらどうしようと常に不安だったのだ。開拓している畑の片隅にワナ用と思われる張られたワイヤーが残っていたこともある(使われていないようだった)。
 かように狩猟については「やれるし、おもしろいし、やったらいい」という合理的な意見と「いやだな、オレはやりたくない」というより身体的な気分が水と油のようにボクの中にはある。S氏には申し訳ないが、「開拓地では狩猟はやらない、専守防衛でいく」と公言している。トシをとってただ単に殺生がいやになっているだけかもしれないが。 S
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by kurashilabo | 2017-02-26 15:12 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)

ふみきコラム20170218

 「捕獲獣広域で焼却―手間減らし処理推進」という「日本農業新聞」(2月9日)の記事が気になった。「害獣」をハンターが捕獲してもジビエにまわるのは1割程度で、多くは埋却や焼却処分されることになる。しかしハンターも少なく高齢者が多いのでその処理が負担になっていたが、全国的に「害獣専用の焼却施設」が建設されていて(1億6000万円位とか)狩猟者から歓迎されているというものだ。

 1960年代以降人がヤマから引き(ヤマと言えば村では今日いうところの里山のことだ)、山沿いの田畑から引いていき、その空白域にイノシシや猿や鹿が進出してきていることは先回触れた。90年代に20万頭位だったイノシシは現在100万頭に、30万頭だった鹿は300万頭位になっているという。当然ながら全国的に農業被害が多発し、「害獣駆除」が地域の猟友会に依頼されることになる。「駆除」が主目的なので報奨金のようなものがでる(イノシシ1頭7千円位?)。食肉はオマケのようなものだが、処理施設が遠かったりして鮮度が維持できない、処理しても食肉としての利用者がいない等々の理由で多くは埋却したりゴミとして焼却することになる。(ジビエはまだ十分には産業化されていない) S

 このことは以前から聞いてはいたが、殺しては埋め、殺しては焼却するするというゴミのような扱いにどうしてもなじめないものがある。もったいないといえばもったいないし、かわいそうといえばかわいそう、冒とく的な何か。そこには人間の根本の倫理に抵触するものがあるのではないか。猿についていえば、食肉とする習慣がないので、一部が医学実験用に利用される他はこれも埋却ないし焼却処分される。捕獲しては殺し、焼却炉に放り込むシーンを想像してみてもらいたい。「害獣駆除」の実際はそのようなもので、新聞によればどこぞの焼却施設では年間5000頭の予定が利用者が多くて1万頭を処理しているのだという。これは「ではどうすればいいのか」という問いとはレベルの違う話しである。

 「害獣駆除」はそうまでして本当に必要なのであろうか。彼らは人を襲いに来ている訳ではない(接触してケガをする人はいるが殺された人はたぶんいない)。その罪は稲を食い倒したとか、カボチャを食われた等々の農業被害がほとんどだ。むろんそれはそれで問題だ。しかしその被害と駆除のナマナマしさがバランスしていない。

 「農業被害がある」といえば何をしても許されてしまう精神風土がある。農家から総スカンを食いそうだが、たかが農業被害ではないか、と言ってみたい。それにこれはもっと言ってはいけないことだがその農家の多くは農業で飯を食っている訳ではない。勤めていたり、年金収入があったりして被害にあっても食うには困らない。獣害がでるような地域での農業は特にそうである。田んぼの被害とて、(一部の専業稲作農家を除けば)稲作収入をアテにしている農家などほとんどいない。獣害で離農とはいってもそれはただのきっかけにすぎない。「農業被害何百億」などという報道は数字のマジックで現実は違う。

 そもそも野外でする農業には「被害」はつきものだ。天候不順であれ、病害であれ、虫害であれ。それに獣害が加わったということだ。むろんやっかいなことではあるがそういう時代に入ったということなのだろう。長い間、人間のエリアに暮していれば野生獣と接触することはほとんど無かった。それは田舎に人とエネルギーが満ちていたからだ。今また私たちはハクビシン、アライグマ、タヌキ、イノシシ、鹿、猿等々と頻繁に出会うようになった。野生獣に取り囲まれている。彼らとの出会い方をよく考えてみることは私たちの未来の質に関わる大事なことなのではなかろうか。 S
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by kurashilabo | 2017-02-19 11:06 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)