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ふみきコラム20170909 徳川五代将軍綱吉は「ビーガン」だった?!

 徳川五代将軍綱吉は今流にいえば「ビーガン」だった。肉食やミルクを飲む習慣はもともとなかったし、彼は魚や貝類などもとらなかったようである。直接の資料はないが、側に仕える「御側衆」にあらゆる貝類とサケ、マス、アユを除く魚の調理を禁じていた。魚貝を殺生して食すことによるケガレを忌み嫌ってのことである。そのことから考えれば当然ながら本人もそれらを食さなかったのであろう。サケ、マス、アユを食べたのかどうか、どうしてこれだけが別扱いなのかはわからないが(何となく清浄そう?)

 彼がなぜそこまで殺生やケガレに神経質であったのか真相はわからない。将軍後継者でもある最愛の一人息子を5歳で失い、本人も大病を患ったからとも、僧の何某が入れ知恵したとも言われている。あるいはもともと英明の誉れ高かったというから儒教や仏教の精神を体現していたのかもしれない(将軍に就いた時35歳)。いずれにせよ、現実派というよりイデオロギーに傾斜した人だった。
そんな彼が触れた「生類憐み令」は後に悪政の最たるもののように言われ、彼自身「犬公坊」などと揶揄されることになった。確かに江戸界隈で魚釣りや、鳥や虫(マツムシ、スズムシなど)や、金魚の飼育を禁じたり、生きた魚や貝やエビなどの商売を禁止したりと、「エーッ!」と言いたくなるお触れも多い。またどこぞの井戸にキツネが一匹落ちて死んでいたというだけで切腹しなければならない人が出たりとマトモとは言い難い。そういう話は沢山ある。

 世に有名な「犬小屋」政策もどれだけ見通しを持ってやっていたのか、はなはだ疑問だ。幕府は犬殺しや虐待の禁止だけでなく、「無主犬が来たら食べ物を与えなさい」「やせ犬や病犬がいたら面倒みなさい」等々「憐みの志」をもって接するようにとたびたび触れたが一向に改善しなかった。そこで幕府が直接犬の保護に乗り出すことになったのである。はじめは獰猛な犬だけ集めたり、雌犬だけ集めて繁殖をコントロールしたりしようとしたようだが最終的には10万匹を越える犬が中野に建設された30万坪(100ha前後)もの犬小屋に収容されることになった。あくまで保護であるので住や食や医療も手当しなくてはならず莫大な経費を要したようである。(建設時には1日2万人の人足を要したとか。またエサ代は江戸市中より徴収された。)それにしても入口はあっても出口は無く飼い続けなければならない訳でありどうするつもりだったのだろう?。

 また「生類憐みの令」は人を含めたあらゆる生類に「仁心」と「慈悲」の志をもって接しなさいという趣旨であるから犬だけなく、人を含めたあらゆる身近な「生類」が対象となった。人については捨て子の禁止や、あった場合の養育、あるいは「牢屋」環境の改善、牛馬については老あるいは病牛馬を捨てることを禁止し、病気になった時や死んだ時の扱いなど細部にわたっている。また武威の象徴でもあり、幕府と諸大名との儀礼的な絆ともなっていた「鷹使い」(鷹狩り制度)も廃止している。鷹狩りは殺生そのものであり、鷹の餌に犬の肉が用いられていたからである。綱吉の「諸国鉄砲改め」も、反乱防止というよりも、鉄砲は殺生の道具であり、無用な殺生を招く考えられたからであった(猟師鉄砲など生業に不可欠な鉄砲の所持は認められていた)。

 いろいろ問題は多かったにせよ、「人々が生類に対して『仁心』と『慈悲』 の志で接するようになれば、御上が上からあれこれ指図しなくとも世の中は自然と治まり平和な世の中になるものだ」というという「御仕置」(国家統治)についてのディープなイデオロギーは今でも考えさせられるものがある。ディープな分だけ現実政策としては人々の反感も大きかった訳だが。道端に犬がクソをしただけであれこれ言われ、人が犬のクソを拾ってあるくようなマッドな世の中の住人としては「無主犬が迷い込んできたら食事を与えなさい」「病犬や痩せ犬はいたわりなさい」「犬をつないでおく必要はない」などとささやく将軍がいたことはどこか救われた気分になる。(続く)  S

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by kurashilabo | 2017-09-09 15:45 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)
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