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ふみきコラム20170701『憲法改正の真実』(集英社新書)を読んで

c0177665_09575312.jpg 憲法学者の樋口陽一氏と小林節氏の対論『憲法改正の真実』(集英社新書2016,3月)はいろいろ教えられることが多かった。自民党の改憲案の批判なのだが一昨年の「安保法制」の成立を受けての対論なので闘争宣言のような趣がある。
 その中で樋口氏が「国防軍を憲法に明記するならばそれは徴兵制であるべき」と言っていて、今まで気付かなかった論点なので考えさせられた。論旨は単純明快で、「…もし新しい軍隊を作るとしたら、何を考えるべきか。それは今度こそ国民主権の論理で軍を作らなくてはいけないということです。」「国民が国民投票によって、国防軍をつくることを是とするならば、それはあなた自身、主権者として、ある種の分担をすることを覚悟してくださいね、という話しですね。(小林節)」

 全く正論で、そこを考えていてボクはやっと、安倍が「憲法に自衛隊を明記する」改憲案を出してきた深謀遠慮が理解できた気がする。別に安倍が徴兵制をもくろんでいると言いたい訳ではない。憲法に自衛隊という言葉が入るか入らないか、それによって自衛隊の性格も、国の形も、人々の心の中も、天と地ほど変わるのだ。
 安倍が「憲法9条の2項をそのままにそこに自衛隊の役割と意義を明記する」と表明した時、ボクはその意味がよく飲み込めなかった。それでは9条はほとんど意味不明な条文となってしまう。第1項は「・・・国権の発動たる戦争と、武力による威嚇 又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」というもので、2項は「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」としている。これだけクリアーな文言のあとにどのように自衛隊を押し込むのか?誰がどう見ても陸海空軍そのものである自衛隊を。現憲法は誰にもわかり易く、誤解の無いように実にクリアーに書かれている。美しいと言ってもいいくらいだ。それがここだけがグチャグチャで意味不明になる。
 そんなアクロバティックな手法をもってしてまでどうして安倍は「自衛隊」の明記に執着するのだろう。集団的自衛権を認め、安保法制が成立してすでに「解釈改憲」は完成している。自衛隊は米軍の二軍として「地球の裏側まで行って」戦争することができる。実務的にはそれで十分なはずなのに。

 また「自衛隊は軍隊としてすでに存在し、大多数の国民の支持を受けている。であるならば憲法にその役割と制限を明記した方がいい」という意見もある。「現にあるものを書き加えるだけ」と言ったこの手の論法は、憲法に書かれることで自衛隊の性格は天と地ほど変わるということを無意識にか意図的にか見落としている。
 現憲法はすべて「日本国民は」という主語で書かれている。国民主権である。そこに自衛隊を明記するということは国民各自が自衛隊(国防)に義務と権利を負うということだ。いざという時には銃をとって戦線に赴くという内心の決意を求められると言ってもよい。国民主権の軍事とはそういうことである。志願制でいくか徴兵制でいくかはその次の議論だ。少なくとも「自衛隊の明記はいいが、自分はそれに無関係」という立場はない。
 憲法に記されていない現在の自衛隊は、たとえどんなに多数の支持を得ていようと、時の行政(権力)がその必要性を判断し設置した組織であり、他の行政サービスと原理は変わらない。行政が人(兵士)を雇用しているのであるから徴兵制はありえないし(人さらいになってしまう)国民一人一人が「いざという時には戦線へ」という決意を求められることもない。
 憲法に自衛隊を明記というのは自衛隊(国防)を自分の精神の内に書き込むということであり、この精神の改造こそが安倍の目論むところなのであろう。ボクはこれまで自分が銃をとって戦争にいく可能性をゼロとして人生を送ってきた。頭の片隅にもなかった。自覚していなかったが、それは憲法9条によって可能となった精神のありようなのだ。そのような「戦後精神」ではダメだというのである。

 若い人やこれから生まれてくる人はもっとずっとシビアな国際環境を生きていくことになるだろう。自分の子どもや孫が「戦争(自衛隊)に行く」と言い出した時、「それはやめておけ」と言える正当な論拠をわれわれは失うことになる。「だって、ボクらの憲法に書いてあるじゃないか、非国民!」  S


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by kurashilabo | 2017-07-02 09:55 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)
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