<< 2017.01.21 夜のレシピ ふみきコラム20170114 >>

ふみきコラム20170121

 超ローカルで恐縮だが、前回の地名の話を続けると、開拓地の谷津田入口あたりに「カママエ」という小字がある。カマはえぐられたような崩れ易い地形をいうが、おそらく鎌や釜のフォルムにも共通するイメージなのだろう。(ちなみに山梨に釜無し川という川があるが、この釜もえぐられたような地形、つまり淵のない川という意味らしい。)「カママエ」には確かに大きくえぐられた崖状地形がある。どうみても自然地形ではないし、昨今土砂を採掘した訳でもなさそうなので気になっていた場所だ。ボクの考えでは遠い昔、田を造成する時に土をとった跡だ。田は畑と違って地面を水平に作る必要があるので、多かれ少なかれ土木工事が必要となる。田は今は水平になっていても、もともと水平な地形などどこにもない。

 興味深いのはその崖の下で9世紀初頭の須恵器(すえき)を焼く窯が8つ発見されていることだ。今でもそこを歩くと須恵器の破片をいくつも拾うことができる。もしそれらの須恵器窯が土を採ったあとに作られているのであれば、田を造ったのはそれ以前ということになる。そこがおもしろいのである。田がいつ造られたかなど、記録に残ることなどまずないので、もしそうであるならそれが推測できる貴重な例といえる。むろんこれは推測の二階屋のような話だがボクはそう思っている。

 ところでどうしてその場所に須恵器窯が造られたのであろうか。風向が良かったのだろうか、近くに良質の粘土が出たのだろうか。いろいろな想像がひろがる。近くには工人の集落があったはずであるし、当然そこから地域全体につながる道があったし、粘土の産出もあったし、焼くためには大量の薪を使うので近くの山はまる裸か松山になっていたはずだ。(山に松林が多いのは薪をとったり落葉をかいたりすると土が痩せて松しか育たなくなるからといわれている)細部は分からないが、奈良平安の時代からこのあたりには多様な人がうごめき、窯から煙が立ち上っていたことだけは確かなのである。

 ボクたちが米を作っているのはこの谷津田の真ん中あたりだが、実はここにも同様の地形がある。沢の西側の斜面が一部えぐられていて、これも自然地形とは考えにくい。二階建ての家の屋根くらいの高さの崖が40メートル位続いている。これもおそらく田を造る時、土を採った跡だ。そこには今はヒノキが植えられ、これはありがたくないことだが「昔ちょっとだけ植えた」モーソー竹が他を圧して繁茂している。確かに竹のおかげで崖の崩れは起きないとはいえ、その日影になって一帯は暗くなってしまっている。モーソー竹やマダケは本当に強い。一旦繁りだすと生態的に優勢樹種となってしまい、他の樹種を枯らしてしまう。密生するし、背は高いし、さしものクズやフジも彼らにはかなわない。木はどんな木であれ1年、2年と月日を重ねて大きくなる。ところが竹は1年で、スギが20年かけて届く高さまで育ってしまう。木は竹にかなわないのである。
c0177665_1052939.jpg



 ここ数日、農場の人海戦術でその竹をバッサバッサと切り倒している。(切るのは楽だがあとの処理が大仕事)一気に視界が開け、明るくなる。爽快だ。竹は利用すれば色々なことに使え、切り倒して積んで腐らせるだけではもったいないが、量が多すぎてともかく一旦皆伐したいのである。来年また生えてくるので、そこで残すべきものは残すということになるだろう。

 どんな土地にも遠い昔からのいろいろな物語が刻まれている。それを読み取っていくというのも開
拓のひとつの楽しみである。
[PR]
by kurashilabo | 2017-01-22 10:44 | 鈴木ふみきのコラム | Comments(0)
<< 2017.01.21 夜のレシピ ふみきコラム20170114 >>