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ドキュメンタリー映画「延安の娘」を観た

 かおりさんが図書館で借りてきたDVDでドキュメンタリー映画「延安の娘」を観た。ちょっと古いが池谷薫監督の2002年の作品である。普段ドキュメンタリーはあまり観ないがこれは出色だった。ドラマ以上に引き込まれた。文化大革命時代、北京から延安に「下放*」させられた青年たちがその地に残してきた「娘」を、すでに50代になっている彼らが実の親に会わせてやろうと世話をやくという話である。言ってみればそれだけなのだが文革とその時代を生きた人間について深く考えさせられた。当時、下放青年たちの恋愛はご法度で、まして子どもを産むなどは「下放破壊」とされ「労働改造」の対象とされた。それ故、堕胎したり、不本意にも生んでしまった子は捨ててきたらしい(労働力が欲しい地元の農民が育てる)。主人公はその捨てられた娘というより、彼女を「自分たちの娘」として世話を焼くことでそれぞれの文革と向き合う元下放青年たちなのだが、その群像に不思議な親近感を覚えた。状況は全く異なるが、そこには同時代を生きた者に共通する何かがあるように思われた。

 内容についてはコメントできるようなものはないが、それよりもまず黄土高原の荒涼たる風景に圧倒された。崖のように深く落ち込む無数の谷で削り出された乾いた台地、その延々と続く台地上を人が立てるところはくまなく耕す小さな人間。見ているだけで肌がカサカサしてくる感じ。あのような風土はどのような人間を作るのだろうか。そんなことを考えた。また同じ農業でも私たちが日頃語るような言葉も論理も通じないのではなかろうか。例えば「自然と農業」と言ったところでその「自然」がない。里山もないし川もない。草も無い(ようにみえる)。あるのはむき出しの乾いた黄土だけ。そこでは農耕だけが生物的自然なのである。もっともそこが「革命の聖地、延安」だということはあるかもしれない。9千万人が住んでいるという黄土高原が全てこんな風だとは思えない。不毛の地だった延安を人海戦術で「改造」していく、(今となって考えれば)プロパガンダ映画をその昔し観た記憶がある。

 なんだかんだと言っても私たちの自然は圧倒的に豊穣である。もう野も畑も花々であふれ木々が一斉に芽吹き、うぐいすが鳴いている。彼岸も過ぎ、農場ではいよいよ今年の米作りが始まる。4月に入れば苗代作り、タネ(モミ)蒔きだ。今年の農場の米作りは「開拓地」でやることになっている。苗代もそこで作る。とはいえ開拓地は耕したり「代掻き」したりできない。カヤが生えていた湿地は機械がもぐってしまうし、篠竹が密生していたところはその根でトラクターもはじかれてしまうのだ。またススキやイバラの株が沢山あってこれも難物だ。そこで地上部だけを地ぎわで刈払い、そのまま水を入れ、田植えは棒で穴をあけながら植えるしかない。しかも代掻きしないので水が底もれする恐れがある。何もかもやってみなければどうなるかわからない。自然農法を目指した訳ではないが、自然農法にならざるを得ない。すでに苗代用に水を入れている。私たちの自然は水で満たされている。ありがたいことに。 S
by kurashilabo | 2016-03-26 14:48 | 鈴木ふみきのコラム