2016年 03月 26日
ドキュメンタリー映画「延安の娘」を観た
内容についてはコメントできるようなものはないが、それよりもまず黄土高原の荒涼たる風景に圧倒された。崖のように深く落ち込む無数の谷で削り出された乾いた台地、その延々と続く台地上を人が立てるところはくまなく耕す小さな人間。見ているだけで肌がカサカサしてくる感じ。あのような風土はどのような人間を作るのだろうか。そんなことを考えた。また同じ農業でも私たちが日頃語るような言葉も論理も通じないのではなかろうか。例えば「自然と農業」と言ったところでその「自然」がない。里山もないし川もない。草も無い(ようにみえる)。あるのはむき出しの乾いた黄土だけ。そこでは農耕だけが生物的自然なのである。もっともそこが「革命の聖地、延安」だということはあるかもしれない。9千万人が住んでいるという黄土高原が全てこんな風だとは思えない。不毛の地だった延安を人海戦術で「改造」していく、(今となって考えれば)プロパガンダ映画をその昔し観た記憶がある。
なんだかんだと言っても私たちの自然は圧倒的に豊穣である。もう野も畑も花々であふれ木々が一斉に芽吹き、うぐいすが鳴いている。彼岸も過ぎ、農場ではいよいよ今年の米作りが始まる。4月に入れば苗代作り、タネ(モミ)蒔きだ。今年の農場の米作りは「開拓地」でやることになっている。苗代もそこで作る。とはいえ開拓地は耕したり「代掻き」したりできない。カヤが生えていた湿地は機械がもぐってしまうし、篠竹が密生していたところはその根でトラクターもはじかれてしまうのだ。またススキやイバラの株が沢山あってこれも難物だ。そこで地上部だけを地ぎわで刈払い、そのまま水を入れ、田植えは棒で穴をあけながら植えるしかない。しかも代掻きしないので水が底もれする恐れがある。何もかもやってみなければどうなるかわからない。自然農法を目指した訳ではないが、自然農法にならざるを得ない。すでに苗代用に水を入れている。私たちの自然は水で満たされている。ありがたいことに。 S