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ふみきコラム 40周年特別コラム⑬

 伝統共同体(ムラ)は解体したと言われて久しい。それはもう50年も昔の話題である。しかしその解体によって私たちは何を失ったのか、その何が問題なのかが問われることは無かった。なぜとなればその解体を誰も問題とは考えていなかったからである。当のムラの人々にとってそれは“豊かさ”“便利さ”“明るさ”と引き換えのものであったから当然である。共同体とは言ってみれば“しばり”であり“重荷”でもあるから、それ無しで暮らしていければそれに越したことはない。ムラは風通しも良くなり暮らしやすくなったのである。むろん今もムラはあるし祭りもある。しかしそれは地縁、血縁でつながった人たちの近所付き合いに近いもので、すでに彼らは個々の暮らしと人生を生きていて基本的には都市民と変わらない。若い人は特にそうだろう。

 他方、都市の人たち、戦後の科学と進歩と経済発展を担った人たちにとっては共同体の解体は当然のことであった。ムラは進歩の反対語であり、科学の反対語であり、民主の反対語であり、経済発展の反対語であったから。この点に関しては右も左も同じで、むしろ左(マルクス主義陣営)の方がより積極的だったかもしれない。マルクス主義歴史観は進歩史観であり、封建制の名残りであるムラ共同体の解体なくして市民社会も社会主義もない訳だから。

 要するに、ムラ共同体を律していた価値や人生観、世界観は戦後精神と真逆だったのであり、それ故戦後精神の中に生きた人にはそれは“見えなかった”ということなのであろう。共同体の解体とは何か、それによって私たちは何を失ったのかという問いは立てようがなかったのである。戦後の歴史は「戦前など無かったように」進んできたが、ここでも同じ態度が繰り返されている。戦後はムラ共同体など単に全否定すべきもの、なかったものとして私たちは生きてきた。しかし一般的な歴史理解によれば中世の惣村以来、日本社会の基盤であり続けた共同体が解体したとあらばそれは大きな歴史の区切りであり、その意味を問うことは実に重大な問題であるはずなのだ。

 「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」で内山節氏が言う「1965年頃の人間と自然との関係の変容、ないし革命」はこのムラ共同体の解体と密接に関連しているのは容易に推察がつく。ムラは「農」という営みや日々の暮らしを通して、はたまた精神世界においてもその土地の生き物や自然、山や川と深く結びついていた。共同体は人間だけでなく、それら(彼ら)を含めたものとして構成されていた。そのような意味で、共同体は人と自然とのコミュニケーション装置、あるいは人と自然の共生装置だということもできよう。“風土”といわれるものが人間の営みとその土地の自然との合作だということからいえば共同体とは“生きられた風土”だと言ってもあながち間違いではない気がする。その共同体が歴史からフェイドアウトしたということは要するに私たちが「暮らし」という身体性のレベルでの自然とのコミュニケーション回路を失った、あるいは社会の土台から人間と自然の共生装置が失われたということになる。

 この問題はムラに住む人よりむしろ都会に住む人にとって切実となる。ムラの人はそうは言っても農業も自然も身近である分自覚症状を持ちにくい。かって日本の田舎はどこへ行ってもムラであり共同体であった。日本近代を牽引したのは工業であり都市であったとはいえ、その発展を支えたのはそのムラであった。戦前から戦後の一時期まで日本社会の土台はムラであり、そこから食糧、エネルギー、様々な物資、有能な人材、労働力、知識や技能、ありとあらゆる富(資源)を吸収し続けることでその発展は可能になっていた。そして忘れてはならないのは都市の暮らしもそのような形でムラとつながり自然とつながっていたということである。日常の中に田舎の手触り、自然の息吹が普通に感じられた。都市の暮らしもまた“根っこ”があったのである。

 その共同体が戦後の燃料革命によって、人材の流出によって、戦後教育によって、テレビの普及によって、モータリゼーションの浸透によって、農業の“近代化”によって、つまりは戦後の商品経済が田舎の末端まで達したことによって解体してしまった。そして都市の暮らしから生き物や自然の手触りや息吹が失われ、人々は“裸の個”として生きざるを得なくなった。都市が自然から浮遊するようになったのである。1965年の革命にはそのようなことも含まれている。 S


by kurashilabo | 2015-01-17 09:47 | 鈴木ふみきのコラム