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ふみきコラム 40周年特別コラム「1980年をふりかえる」

 1980年3月30日、農場で開かれた「たまごの会世話人会」は古い会員には「サンサンマル」と呼ばれ特別な想いと共に記憶されている。その後の分裂紛争の号砲となった世話人会として。農場40周年の記念として古い資料を展示することになり、ひっぱり出された中にその議事録があったので、人につられてつい読んでしまった。ボクはその2年ほど前から農場に出入りするようになり、その年のはじめにスタッフ希望を出していたのだが「スタッフは減らす方向」という意見もあり棚上げになっていた。3.30の世話人会はその前から何やら不穏な気配があり、おそらく「この世話人会で決めてもらわなければもうチャンスはない」とボクなりに判断したのであろう、当日の議題に押し込んでもらっていた。会議の冒頭、いくつかの反対意見があったが、たまごの会の将来を賭けたメインの議題があとにひかえていたので、「とりあえずOKにして本題に入ろう」みたいなところで承認された。そこを議事録は「80年度方針決定後スタッフ解除ということもありうることを前提に」と記している。個人史としても記念的な世話人会だったのである。

 会議を主導した一部の人たちは(一部といっても半分位の世話人や農場スタッフが含まれていたが)この会議で「たまった膿を出しきって解体的再生をしよう」と申し合わせていたのではないかと思う。「言うべきことは言おうヨ」と。しかしそれを知らない他の世話人やスタッフにはびっくり仰天の中身だったのである。会議は農場内の人間関係の問題に至ってピークに達する。議事録から引いてみよう。

世話人の1人から「たまごの会のみなさんに訴える」という文書が配られ、その冒頭の「下放青年詩集から」が朗読されそこには「・・・人を公然と馬鹿にし、仲間として扱わなかった奴は誰か!無抵抗な子どもをいじめ根拠なく犬猫を殺した奴は誰か!緊張関係もチェックもケンカももうゴメンだといおう…友よ言葉の暴力に屈するな、こういう人民公社にしたのは誰か…」とあった。この詩に続いて「今、なぜA(個人名 女性)批判なのか」と文書は続くのである。

 むろんこのあたりから会場は騒然としてくる。農場スタッフから次々A夫妻批判の発言が続き、場はA夫妻糾弾集会の如くなっていく。その場にリアルタイムで居た者としてはひとりひとりの顔や声音が昨日のことのように思い出されて懐かしくもある。中身はまぁ今更どうでもよい。どこにでもあるといってしまえば終わりのような話しだ。A夫妻のキャラがたちすぎていたのであろう、悪意はないのにひどい言い方をされて災難なことでした。問題があったとすればそもそも共同体(コミューン)を作り、共同性をテーマにしたこと自体にあったというべきだろう。

 今、関川夏夫の『白樺たちの大正』(2003)を読み返している。武者小路実篤らの実験的コミューン「新しき村」の顛末が大正という時代の気分とともに小説のように再現されていて興味が尽きない。宮崎県の山間地に建設された「新しき村」では1年目から人間関係をめぐる混乱や追放が続き、「たまごの会」を経験した者としては手に取るようにわかり実におもしろい。たまごの会の3.30は農場建設から5年目であるから、よくもったと言っていいくらいである。またこの本ではじめて知ったのであるが、中国の魯迅の弟、周作人が数日だけだが村に滞在したことがあり、新しき村に大変興味をもち、その後北京に小さいながらも村外会員の「支部」を作ったというのである。そして1920年若き日の、まだ共産党創立以前の毛沢東は周作人を訪ね「新しき村」についての話しを聞いた。周恩来もまた周作人の新しき村の精神についての講演を聞き、おおいに興味をもったという。むろん2人はその後急速にマルクスレーニン主義に傾斜していくことになるのであるが。毛沢東はその前後の一時期「新村」を夢想していたということだ。彼は40年後、新中国成立後の1957年「人民公社、好」(コミューン、いいね)と言って文華の嵐の中、全中国を人民公社化してしまうのであるが、そこに若い日の小さな経験が影響していたのかどうかはわからない。人民公社はあまたのコミューンの例にもれず、何億人という規模で失敗し、その反動であろうか「理想より現実」「金がすべて」という赤い資本主義の帝国となって今があるのであるが。

 自由、平等、贈与、相互扶助のコミューンは失敗を宿命づけられている。しかしコミューンの夢なく生きるくこともまたあらかじめ失敗を宿命づけられていると言えるのではないか?  S


by kurashilabo | 2014-10-25 11:19 | 鈴木ふみきのコラム