2014年 03月 22日
ふみきコラム 谷津田に思いを馳せる③
溜池(ためいけ)は4世紀頃に大陸から伝来した灌漑技術で、小さな谷の水を溜めておき、田植えから夏の頃の渇水時に放流して稲作の安定をもたらすものである。当時としては最新(先進?)の技術で、この話しの地元には今も多くの溜池が残っている。(夜刀の神の話しはその溜池の由来を古老が語るという形になっている)
箭括氏麻多智がその地を開拓してから百年以上経って(大和朝廷の時代になり)そこを壬生連麻呂が占有することになった。連というのだからかなり有力な豪族である。彼が役の民、すなわち労役としてかり出された人々(防守などと共に律令制下の公民に課せられた労役義務)に命じて溜池の堤を修築しようとした時のことである。またもや夜刀の神が群れ集い妨害した。そこで彼は役の人々に命じて「目にみえるくさぐさの物、魚虫の類、はばかりおそれることなく、ことごとに打ち殺せ」と言うのである。もはやかっての麻多智のように神として祭ろうとも祟るな恨むなとも、そんなヤワなことは言わない。開拓の、つまりは農という営みがその根にもつ荒々しさをこれほど端的に表現したことばを他に知らない。荒々しさとは別のことばで言えば合理性であり開明性ということだ。農業は呪術的世界を破壊することなしにはたちあがることができない。この一節はその離陸の光景をよく表していると思う。
いまひとつ「…何の神(いずれのかみ)、誰の祇(いずれのくにつかみ)ぞ風化(ことむけ)に従わざる」という一節にも驚く。どこの神、その地のどんな神が風化に従わないのだ。許さない、と言うのである。風化(ことむけ)とは皇化であり天皇の政治に従わせると言うことである。ここでは田の開拓や稲作が明確に皇化という政治だということ名言されている。これも驚きである。「風土記」が天皇に献上する書物だという性格を差し引いてもそこには田や稲作のもつ基本属性がよく現れている。田や稲作は日本史の中で一貫してある種の聖性をもち、日本正史の基盤だった。たとえば(現在は事情がだいぶ異なるが)長い間、日本の歴史は弥生時代からであり、それ以前(縄文時代)は先史時代として扱われていた。その理由はいろいろあるにせよ、弥生時代に稲作が始まったということが大きかった(今では疑問も呈されている)。歴史教科書で登呂遺跡などが大きく扱われたのもそこに大規模な水田遺構が見つかったからだ。江戸時代に国々の富を示すのに石高が用いられたのもそうだろう)。何万石の大名というのはその国(藩)の様々な富を米の石高に換算して表したものである。この稲作の聖性に最終的に引導を渡したのは1970年以降の減反政策である。減反とは端的に「米作りは価値ではなくなった」というメッセージだったからである。精魂込めて米を作ることが百姓のプライドであり、社会の認める価値であった。今では覚えている人もいないだろうがそれまでは「米作り日本一」などが毎年新聞記事になったりしていたものだ。
今ではさすがに稲作を風化(皇化)という意識で見る人はいない。しかし私たちが稲作から自由になったかというとそうともいえない。TPPであれ何であれ稲作が問題となると人々はたいてい大騒ぎして保守に傾く。「田を荒らす」というのは今でも百姓失格ということである。そして天皇は今も尚、春には「お田植」をし、秋には新穀を天神地神と共食して祈っているのである(新嘗祭。今ではその日を勤労感謝の日としている)。それが天皇の聖性と一体のものであることはいうまでもない。