人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ふみきコラム 荘園制②

 「荘園」の提案ではとりわけ「ヤマ」というテーマを掲げている。「ヤマはおもしろいぞ、ヤマを再開拓しよう」ということなのだが、それだけでは何のことやらわからないので若干の解説を加えたい。今日、ヤマと言えばだいたい山岳のことでハイキングや登山でいくところを指しているが、田舎ではヤマといえばいわゆる里山のことであった。里山ということば自体は山里を逆にした造語で林学研究者によるものである。里山というと裏山のようなところをイメージしがちだが、平地林もまたヤマと呼ばれていた。地主の高橋さんが「ウチのヤマは・・・」といえばこの農場周辺の松林のことで、農場はそのヤマを切り開いて建設されたのである。平地林を含めて里山は大変広く、耕地面積(田、畑)の数倍あるのが普通だった。徒歩で、あるいは馬を連れて仕事に行き、夕方には帰ってこれる、それが里山の範囲だ。

 近代化される以前の伝統社会にあってはヤマは暮らしの土台として不可欠の場所だった。薪炭林としてエネルギーはすべて山に依存していたし(薪炭は自家用以上に冬の現金収入の柱だった)、建材や田のハザ棒、オダ足をはじめ多様な材を産出したし、農業的には落ち葉や下草の供給源だった。古い時代には広範囲に焼畑が営まれ、アワ、ソバ、マメなどの雑穀類を栽培し、それは米以上に(米は年貢や販売にまわることが多かった)食の柱だった。また魚、ワラビ、フキ等、山の恵みも多く、いざという時の食糧基地でもあった。(ヤマには必ず川があったし、川の再生産力というものは想像以上に大きい。大切なたんぱく源)このようであったから近世までは水争いとともに山の境界をめぐる出入り(ムラとムラのバトル)もしばしば発生した。それほどに暮らしに不可欠な場所だったのである。里山からもっと先、奥山や山岳地帯はマタギや林業関係者を除けば山岳信仰、山中他界、修験の世界だった。それはまた修験者たちを介して人々の精神の基礎を形作っていた。伝統社会における宗教は寺であれ神社であれ修験と地続きで、そのような形でも人々はヤマとつながっていたのである。

 ヤマは里(集落、田、畑)とはまた違う文化エリアである。私たちはこれまで農業についてはあれこれ言い、実践もしてきた。つまりは里という文化エリアを活動の場としてきてヤマについては手をつけないできた。しかしそれでは田舎の半分、それも表側しか見てないことになる。それはそれで面白いが、やはり奥行きに欠けるといわなければならない。ヤマには里にない沢山の素材が眠っているはずだ。それを掘り起こし、現代的にアレンジしていけばおもしろい場所となるだろう。具体的な中味(例)についてはレジュメに譲るしかないが、そんな難しいことを言わなくとも冬の日差しを受けて雑木林を歩み、流れでる小さな谷筋をながめているだけでも一日楽しめるだろう。大事なことはヤマでは活性化する自分の身体や精神の層が里の生活とはまた違うということである。ヤマでなければ活性化しない身心の層がある。それは自分の中の子どもだ。子どもは半分は人間界に属しているが半分は自然、野性を生きる中間的な存在だ。実は里山も同じ中間的なエリアなのだ。そこはむろん人間の管理が入っている。しかし里のように裸地にして人間の都合だけの秩序を作ることはしない。半分は自然の生態系が維持され、自然の自己復元力が強く働いている。そのような場所はおもしろいし、教育力も高く、人の身心の古層を活性化する。かって子どもは大人に連れられて、また子どもたちだけでヤマに入り、人生に必要なことをすべてそこで学んだ。ヤマはこれ以上ない学校だったのである。

 現実のヤマはもう50年以上前に見捨てられ、荒れて、今はイノシシやサル、シカの住み家となっている。戦後の薪炭から化石燃料へのエネルギー革命や農業の近代化、消費文化の浸透、モータリゼーション等々でヤマは歴史から消え去った。しかしヤマと同時に人生や暮らしにとって大事な何かをも捨ててしまった気がするのである。むろんヤマを復活させることなどできないが、その捨てられてしまった大事な何かを、イベントとして、また事業として取り出すことはできるし、それは刺激的で現代的なテーマであるはずなのだ。

 このように「ヤマ」を開拓することで私たちは都市、里、ヤマというそれぞれ異質な文化エリアを往還する生き方を手に入れることができる。それは自分の身体と精神の全的活性化を促すであろうし、そしてまた定住革命、農業革命、高度産業資本主義と進んできた人類史の身体的復習として最も深い知性と癒やしをもたらすに違いない。 S
ふみきコラム 荘園制②_c0177665_22314951.jpg

by kurashilabo | 2013-12-27 22:32 | 鈴木ふみきのコラム