人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ふみきコラム 収穫祭前夜

 11月3日は農場の収穫祭でした。その前日の夕刻、一部会員の見守る中、農場スタッフで“神事”を催しました。3年ほど前にもやったことがありますが、その時は“見世物”としてやりましたが、今回はどちらかといえば年中行事としての神事という位置づけです。
 収穫祭は農場の秋祭りですからただ飲み食いするだけの収穫祭に何かつまらなさを感じてはいましたが、とはいっても私たちにとって神事は難物です。何しろカミなどということばは私たちの日常用語にも感覚にも無いものだからです。私は至って散文的な人間なので、日常、神的な何かに感応するということもなく、空から霊感のようなものが身を貫くということもありません。正直なところ。
 しかしまた長く農業や農場生活をしてきて神事が必要だな、という思いもあるのです。それが無いと農業は完結しないというか、魂が入らないのです。いつまでたっても底の浅い、中途半端なままということになる。どちらにせよ神事のパロディ、お笑い草にしかならないことを承知でやってみようということになりました。

台本はトシヨリである私が一晩で作りました。

ポイントは、

1、大きく火をたく。
火は神事には不可欠です。拝火教を持ち出すまでもなく、火に私たちは魅せられます。またこれは原発がらみで教えられたことですが、私は「燃える」ということを何気なく自然現象だと思っていましたが、「燃える」というのは生命的現象な訳です。地球生態圏だけにある現象です。考えてみれば当然で、燃えるものは有機物だし、大気中の酸素も生物由来のものです。(原始地球には酸素は無かった)。また私たちは体内で炭素を燃やして生きているのですからもともと呼応するものがあるのでしょう。(炭素を外で燃やすか内で燃やすか)火は生命を象徴しているのかもしれません。それと同時に火には浄化というイメージもあります。燃やし尽くす、無に帰す、灰になる、そのような意味です。

1、動物たちも参加させる。
農場の生活者は人だけではありません。犬や猫や豚、山羊、鶏…。農場の農場たるゆえんは彼ら動物や植物と人が共棲しているということですから彼らにも参加してもらわなくてはなりません。

1、「のりと」をあげる。
「かしこみかしこみ申す…」と始まるのりと(祝詞)の本来の意味は良く知りませんが、ここでは神に申し上げることばというくらいの意味です。むろんその様式も知りませんが、次の2つを申し上げた。ひとつは、「生きとし生ける者を生かしめているこの地の神々」に今年の収穫を感謝するということです。繰り返し言っているように米も野菜もたまごも「生産物」ではありません。それらは私たちよりずっと大きな存在からの「恵み」として私たちの手元にもたらされます。感謝するしかありません。

いまひとつは、私たちのために命を落とした者たちへの鎮魂のことばです。直接には豚や鶏のことですが、農業は荒々しい面がありますから沢山の生き物を殺しています。それらも含めて。「これよりのち、吾れ(あれ)神の祝(ほうり)となりてとこしえに敬い祀らん。願わくば、な祟りそ、な恨みそ」としました。これは常陸国風土記からのパクリですが、豚や鶏を殺すことを、「家畜だから」「産業動物だから」ということばで見て見ぬふりをするのでなかったら、このような仕方で、内的に了解するしか筋道はありません。

1、呪文を唱える。
手作りの「鉦」を鳴らしながら火の回りを何周もまわり呪文を唱えました。呪文は「あふれる命、豊年万作、五穀豊穣、無病息災、天下泰平、ありがたやありがたや」というものです。もうこれ以上の呪文はないでしょう。

ふみきコラム 収穫祭前夜_c0177665_11123343.jpg

カミ観念が無いのに神事もないだろう、という御意見もあろうかとは思いますが、形が無ければ神々も現れようがない訳で、神々がいるとして振る舞う時に、そこはかとなくお出ましになるのではないでしょうか。ほんとかどうかわからないけど。ちなみに変なかぶりものをしたり、豚の頭蓋骨を沢山並べたり、はだしで踊ったり、知らぬ人が見れば何やら怪しげなものでしたがこうして書くと、実に健全な団体であることがわかるでしょう。人々の冷笑にめげず来年もやることとしよう。

長年の懸案であるこの“神々の自給”はどこにもモデルのない未知の領域です。生協でも取り扱っていないと思うし。これこそ最も深く近代を批判するものです。何しろ近代は地の神々を殺し尽くすことで現在の繁栄を築いてきたのですから…。 S

ふみきコラム 収穫祭前夜_c0177665_11134823.jpg

by kurashilabo | 2013-11-10 11:07 | 鈴木ふみきのコラム