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ふみきコラム1223

 いわゆる新規就農の人々の前途は多難である。前途などあるだろうか、と言いたくなるほどだ。

 お金の問題一つとっても難題である。「お金が目的ではない」と「お金に替えられない豊かさ」と言ったところでお金は必要となる。このハードルを越せなくて撤退する人も少なくない。そもそも彼らを駆り立てた動機であるところの「農的」生活、ここで使ってきた言葉でいえば贈与性レベルの話はお金でカウントできない世界の話であり、お金とは最も縁遠いものだ。それゆえ実際の生活では逆ベクトルの農「業」の方に精を出さざるをえない。その「業」も、かってのように「有機ならやれる」という甘い時代ではなくなっている。「大地の会」をはじめ沢山の有機農産物を扱う業者があり、生協あり、雨後のタケノコのような直売所あり、ネットあり、今ではちょっとしたスーパーでさえ扱っているという具合。そこでは新規就農者はまともな競争力をもたない。それで多くの場合、野菜セットを宅配で送るという形に落ち着く。それしかないのである。しかしそれも親戚、友人、知人のサポートという範囲を越えることは少ない。才覚があれば、業者や生協との契約栽培ということもあるが、もうそのチャンスも極めて少ない(新しい契約栽培者を必要としない)。多くの新規就農者がそのあたりで立往生している。そんな印象をもっている。仮になんとか食べていけるレベルに達したとしても、「業」の方で手いっぱいで「農」どころではないというのが実情ではなかろうか。悩ましいところである。

 一見両立しにくいようにみえる「農」と「業」だが、実はかってのムラではごく普通に両立していたということは注意しておいてよいと思う。むしろその両方が活々していいてこそムラは人の生活の場たりえたのである。かっての農業はむろん農業として年貢であれ販売であれ出荷目的であったのは当然だが、同時にその農業のやり方、暮らし方には沢山の「農」が組み込まれていて、普通にやっていればそんな問題は起きようがなかった。共同体という場と伝統的コスモロジーがそれを可能にしていた。それに比して現在の新参農業者は全くの近代的個人であり、それぞれに「私小説的」営農をしているだけだ。両方を同時に成り立たせる「場」、「意味レベル」を欠いている。そこでは「業」と「農」が逆の方を向いてしまうのである。「業」に傾く人は農水省から表彰されてもいいようなベンチャーとしてのエコ農業の担い手になっていき、「農」に傾く人は自然農やパーマカルチャーに行ってしまう。中間でやっていくのは難しい。

 また、以前にも述べたことだが、新参農業者はどこまでも個人であり、そもそも共同性というものを欠いている。それ故、時には何日も人と話すこともなく、年中行事や祭りもなく、山や川や風土とのつながりもなく孤立して仕事をしていくことになりがちだ。それは現代の開拓者の不可避の属性であるのだが、それはそれでつらいものがある。そんな心の隙間に地域とかムラという幻想が入り込む。そこに私たちにない何かがありそうな気がする…。そして少なからぬ人が道を誤る。地域にはおもしろい発見や人物や風景が沢山あり、郷愁に満ちてはいる。しかしそこは私たちの活動のフィールドではあるが、(文化人類学が使うような意味で)メインテーマがそこにある訳ではない。私たちは地域の人でも農民でもないし、なることもできないし、なる必要もない。本当はその時、新しい共同性、私たちの出自でもある都市民を含んだ新しいムラ、新しいアニミズムのようなものが求められているのだが、これは途方もなく難しい。

 かようにどちらを向いてもまだ出口は見えていない。現代の「農」を目指すムーブメントは今後どのような展開をみせるのだろうか。現代の開拓者たちは何者たろうとしているのだろうか。生き方の問題として私小説的空間に遊ぶことで満足できるのだろうか。あるいは現代社会を根底でゆるがす根拠地のようなものに進化する可能性をどこかに秘めているのだろうか。それとも行政や農業関係者がリードする形で新しい農業の担い手という言葉にくるまれて、再び近代に回収されていくことになるのだろうか。それはわからないが、就農して有機農業を始めた人々は戦略なき生活と闘いを強いられている気がする。

 だがしかし、そうではあるが、彼らは大きなアニミズムに向かうかにみえる時代潮流のその波頭に立っていることだけは確かなのである。そして言うまでもないことだが、新規就農者とは私自身のことであり、私たちの農場のことである。
by kurashilabo | 2012-12-23 10:11 | 鈴木ふみきのコラム