2012年 08月 28日
ふみきコラム0825
しかし農的ないし農業志向というのが単に時代の気分ではなく歴史の深いところからやってくるとするなら、その農的はどのように自分を表現し、どのような仕方で歴史に接続するのであろうか。その歴史的位相とはいかなるものなのか。「農的」ということがふと、都市の先端を生きる若い人の頭をかすめる。あるいは「山住み」にあこがれる。その時彼は別に農業や林業を考えている訳ではない。ここで使ってきた言葉でいえば、おそらくは自分史の中の農業革命以前、定住革命の時代に立ち帰ろうとしているのである。自分と自然、自分と動物や草木が未分化で「皆有仏性」が日常であった時代、快楽と充足の子ども時代を生きる方法、未来としてとり出そうとしているのではなかろうか。また、そういう回路を通って人類史の「先史」時代に接続しているのであり、「先史」の中により心地よい未来を夢みているともいえる。しかしそういう筋道で普遍や未来を語ることばはまだないし、むろん現実社会にそんな場所はあるはずもないので、とりあえずそれに近そうな「農的」という言葉を入り口にしてその気分を語っているのであろう。
しかしながらそれが農的気分、あるいは農業志向のうちはいいが、一歩進んで農業への参入するとなるとちょっとやっかいなことが起こる。農的、あるいは農業志向とは言ってもよくよく考えれば、それは自然志向とほとんど同義で、本来農業とは関係ない動機だからである。彼らは農や農業の中にその答えがあると誤解しており、そのスタートにおいてすでに誤っているともいえる。彼らは農業革命以後を語ることはできるかもしれないが、それ以前に進めない。農業は農業であり、農業とは開明的合理的なものであって、対象を物として扱う。草木モノを言う呪術的世界を駆逐した場所に農業は成り立つ。だからといっていいかどうかわからないが「農的」な人たちは両極端に分かれがちである。草木虫魚、皆有仏性を考える人は限りなく自然農に進んでゆき、農「業」の文脈を考える人はビジネスとしての農業に純化していきがちである。もともとの動機を農業用語で語ってしまえばどちらかにいくしかなく、それが農的な人たち(自分のことですが)の限界であるともいえる。
「農的」ということになにがしかの意味があるとすれば、自らの精神の古層を発掘するような形で定住革命を復習し(定住+狩猟採集+農耕)、そこから「先史」的未来を構想できるかどうか、再び歴史に接続することができるかどうかにかかっている、とは言えるものの、そんな途方もないことが実践的課題たりうるのかどうか、私にはわからない。