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ふみきコラム1224

農場で僕はシロという名の平凡な中型犬を飼っている。

「犬殺し」という言葉を聞いたことがないだろうか?今は死語になっているから若い人は知らないだろうけれど「前期高齢者」とか「後期高齢者」の方々の中にはいるのではないか。小さい頃、犬を放していると「犬殺しにつれていかれちゃうよ」などと親から脅された記憶がかすかにある。少なくとも「犬殺し」という言葉を僕は知っている。「人さらい」と同じで、何か禍々しい響きと恐ろしさがそこにはあった。その言葉に部落差別の含意があることを僕は知らなかったけれども。当の親がそれを知っていて使ったのかも定かではない。

明治の初期、政府は江戸時代以来、街や村に住みつき、地域の人々とそれなりに共存してきた地域犬の撲滅に乗り出すが、その捕殺の仕事をいわゆる“部落民”にやらせたのである。文明開化と狂犬病対策を大義名分とした「登録され、飼い主が決まっており、つながれている」以外のすべての地域犬の捕殺(撲殺)には表だった反対は記録されていない。しかし、幕末から明治への戦乱の直後で、まだ社会が混とんとしていた時代であった。表立った反対ができよう訳がない。地域犬のジェノサイドという政策は(登録し、責任を負い、つないで飼うという習慣はまだ一般的でなかったから実質すべての地域犬が対象となった)当時の人々の精神を逆なでしたはずである。江戸期の人々は「動物を殺す」ということにきわめてナイーブだった。「動物を殺さない」というのは当時の人々のコスモロジーの根本に組み込まれた“身体化された倫理”だった。家のまわりをウロつく犬を撲殺するなど思いもよらぬことだったのである。その仕事を“部落民”にさせた。そこに政権の「犬の撲滅への反感を部落民の方へ向けさせる」という高度な政策意図があったかどうか、それはわからない。ただ、現実的にいって、その仕事ができるのは彼らしかなかったのも確かである。歴史的に牛馬をはじめとした生き物の処理、ノウハウとスキルは彼らにしかなかったからだ。

このようにして「犬殺し」という言葉は複雑な含意をもつことになった。そこには最も身近な動物である犬を、何の理由もないのに無慈悲に殺してしまうというやり口への深い嫌悪と恨みがある。そしてまた当の実行者たる“部落民”への強い差別の眼差しがある。かような強制的な地域犬撲滅政策にもかかわらず、地域犬はその後も歴史から消えることなくしぶとく街や村を徘徊していた。それは犬の繁殖力の強さもさることながら、この撲滅策が人々の本当の同意に基づいていなかったことによるだろう。地域犬、すなわち野良犬が私たちのまわりから最終的に消えたのは昭和も後半、日本が経済の高度成長を謳歌していた頃である。それは政策というよりはむしろ、私たちの超近代化された社会がそれを排除したと言った方が正しいだろう。道端に犬の糞がころがっているだけで眉をしかめるようになったのである。

こうして野良犬ということばは、二重の意味を持つようになった。社会の害悪であり、かつ権力にまつろわぬ頑固者という。そこには犬の近代史が刻み込まれているのである。「犬殺し」ということばは死語となった。しかし犬殺しが無くなった訳ではない。僕は未だに“保健所”という名前にいい印象がない。「犬殺し」はなくなったが「保健所につれてかれちゃうよ」とは今でも聞くのである。保健所の職員の方々には申し訳ないけれども。シロを放し飼いにしていた時、それが一番怖かったのである。S
by kurashilabo | 2011-12-24 18:23 | 鈴木ふみきのコラム