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ふみきコラム1211

アンソニー・ミンゲラ監督の映画「コールド・マウンテン」(2003)を観る。南北戦争を背景とした純愛ものだがこれがなかなかいい。「イングリッシュペイシェント」も印象深いがそれより楽しめる。どちらかといえばむしろクラシックな映画だが、こういう映画を観ると、日本映画がひどく安っぽいものにみえてしまう。日本人としては日本映画の情緒も楽しめるのだけれど、その私小説性に耐えられない時がある。日本人には作れない映画というものがあるのだ。仕方のないことだけれど。映画評はさておき、印象に残ったワンシーンを。

戦線離脱した南軍兵士のインマンは脱走兵狩りに追われながら故郷の恋人の元までひたすら歩き続けるのだが、その途中、瀕死のところを山棲みの山羊飼いの女に助けられる。そのシャーマンを思わせる老女が山羊を撫でながら語る。「人は山羊一匹で永らえることができる。話し相手になるし、ミルク・チーズ、いざという時にはいい肉になる…」そして静かに山羊のノドを切り、その血を皿に受けながら続ける。「この世には定められた筋書きがあるんだよ。自然をごらん。鳥が実を食べ、糞になり、糞から芽が出る。鳥にも糞にも種にも役割がある。いい子だ、お前も立派に役目を果たしてくれた。」そうつぶやきながら尚、横たわる山羊の体を撫で続けるのだ。

ウーム、作り話とはいえよくできたシーンだと思う。映画を農業的な見方で語るのは色気のないことだけれどボクはつい2つの事を考えてしまった。ひとつは技術的なことで、「山羊はこうして屠るのか」ということである。農場でやった時は押さえつけて直接心臓にナイフを入れるという荒っぽいやり方だった。しかしこのように撫でながら抱き寄せ静かにノドを切るという方法もあるのだ。(このシーンが何の考証もなく作られているとは思えない)いまひとつはこういう人と動物の関係はいいなぁということである。広い意味でいえばこの山羊も家畜であり畜産の一つの形といえるだろう。しかしここにそんな言葉は似合わない。人の暮し方、生き方のひとつの形がある。コンパニオンとしての山羊と、お肉になる山羊が老女の振舞いと語りの中で同居していて、そこに無理がない。人と動物の原初の出合いがある。この農場にも山羊はいるが、残念ながら(?)農場には食べ物があふれていて、かような生存家畜としての山羊の出番はない。それ程貧しくないのだ。山羊は家畜としては元来大変すぐれ者なのだ。かわいいし、おとなしいし、いざとなれば草だけで生きるし、生長が早くて頑強だし、ミルク・チーズ・お肉はもとより皮も使える。「山羊がいれば生き永らえることができる。」そんな底力を発揮する場面がないのはちょっと残念。農場では彼らはペットであり風景の一つになっている。

鶏や豚についても本当はそうなのだ。彼らを生存家畜としてみると実にすぐれた能力があり、彼らと共生(棲)することで人の生活は格段に幅と奥行きが出る。豊かになる。しかし農場では彼らは舎飼いされ十分な餌を与えられるので、その元来の底力は発揮されないままで終わる。鶏や豚が沢山いるこの農場でも実は本当の彼らの姿は見えていないかもしれないのだ。生存畜産(?)と経営としての畜産は全く別物なのである。S
by kurashilabo | 2011-12-11 18:19 | 鈴木ふみきのコラム