2011年 11月 20日
ふみきコラム1120
「NPO法人ねこの代理人たち」とか「ねこひと会」などという怪しげな団体があるらしく、20km圏内での保護活動に尽力している。動物愛護団体というのはどこか世間の常識が通じない人たち、犬猫のため(と自分が思うと)常軌を逸した行動に走る人たちという印象があって近づきがたいものがある(過激派!)。しかし放射能をものともせず、即20km圏にとび込み、犬猫の保護に文字通り走り回るという行動力はすごい(やはり常軌を逸している)。ボクはとてもそんな行動力もカネもないが(相当のお金がかかっているはず)自分を振り返ると犬猫の事となると何でもしてやりたくなり、すぐ感情的になって「ねこの代理人」や「犬の代理人」になってしまう。実は愛護団体の人と全く同じなのである。
こういう精神って何だろう?子ども(幼児)性なのだろうか。そのような人は往々にして、人間の無残な死体の写真を見てもわりと平然としているのに、動物たちのそれは見ていられないのである。ボクもまた死体がゴロゴロした戦争の写真などは割りと平然とみてしまう。むろんひどいなぁとは思うが感情的になることは少ない。 しかしこの本の、糞尿と仲間の死体の中にへたり込んで動けなくなり、頭だけ挙げて涙目で弱々しく鳴いている牛の写真はまともに見ることができない。動物の写真はなぜこんなに情動を喚起するのだろうか。オレの精神はどこかおかしい、冷酷なのではないか、などといぶかしく思ってきたが、どうもそれは違う気がする。昔、戦国時代に来日した宣教師が残した記録に次のようなエピソードがある。
(正確ではない)「日本人は鶏を1羽殺すのに大騒ぎする。しかし人の首を落とすのは平気である。」ちょっと笑いたくなるが、その心情はよく分かってしまう。日本人の気質は昔から変わっていないのである。(どこか人の命を重大に考えない、執着しないという傾向は戦争での特攻隊から今日の死刑制度の議論にまで底流している気がする)人の死と動物の死を、私たちは心の別なところで受け止めているのではなかろうか。人の死はたかが人間世界の出来事にすぎない。それは因果応報であったり諸行無常ではあるが了解可能な事である。しかし動物の死はもっと無垢な世界の出来事で、心のもっと深いところで感応している。人の死でも自意識のまだ育たないいたいけな子どもの死は理由もなくつらい。それはたぶん小さな子どもたちは人間世界の住人ではなく、まだ神の領域の住人だからだ。それと同じである。親の死には涙しなくともペットの死には泣き崩れる人がいても驚くことはない。自分がそうだからだ。話が変になってしまったが、例のへたり込んで弱々しく鳴いていた牛たちも、7月の段階ではすでにうじ虫さえ無く、毛と骨だけを残し、牛舎には静寂だけがあったということだ。「家畜たちの代理人」たらんとするボクは、誰に何と言えばいいのだろうか。ギャーテーギャーテ、ハラソーギャーテ、ボージソワカ。